現在もサラリーマンが退職金を元手に始めるイメージの不動産経営。入居者さえ集まれば、後は管理会社に任せ、寝ていてもお金が入る理想のビジネスのような感じがしますが、実はこの不動産経営、すでに江戸時代にも存在していたそうです。
今回は文春新書 江戸の不動産より知られざる江戸時代の不動産経営を紹介します。
幕府が下級武士に与えた拝領町屋敷
江戸幕府に仕える幕臣たちは、身分に応じて幕府から武家地を割り当てられました。この武家地は幕臣が住むための土地ですが、それとは別に幕府から町人が住む町人地に所領を与えられる者もいました。
そうした土地は拝領町屋敷と呼ばれ、武家地の中で拝領した土地とは区別されます。
では、拝領町屋敷とは、何の為に下賜されたのか?それは録が少なく生活が困窮する下級武士の経済援助のための政策でした。武家地に住む幕臣が町人地の活用、すなわち不動産経営を許され、その地代や店賃を生活の足しにしていたのです。
当時の不動産経営の様子を幕末の御家人山本正恒は、
「禄高が低い幕府役人や御坊主衆が町人地を拝領していて、拝領した土地をまるごと町人に貸付て生計の足しとし、自分達は他人の敷地を借りて住んでいた」と回想しています。
現在でも自分の土地にアパートを立てて、自分は貸家住まいで大家さんをしている人は多いですが、江戸時代も同じなんですね。
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町人地の1割が下級武士の不動産だった
当時の土地台帳である「諸向地面取調書」によれば安政三年(1856年)時点で武家が町人地で所持する拝領町屋敷は27万6000坪あったとされます。同史料には遺漏があり、拝領町屋敷は実際30万坪を越えていたと考えられ、町人地全体が270万坪とされる中、その1割強が幕臣経営の不動産物件だったのです。
ここまで幕臣が経営する不動産が多ければ、江戸時代は武士による不動産経営がポピュラーだった時代と呼んで差支えないでしょう。
ただし、現在と違い武士は自ら家賃を徴収して歩く事は無く、そういう事は物件を管理する大家がおこない、武士はそのような管理費を差し引いた分を大家から受け取るだけでした。やってる事は不動産経営なんですが、武士階級が町人から金を取りたてるのは世間体が悪く、大家でワンクッション置いていたんですね。
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決して楽ではない不動産経営
こうしてみると、薄録の幕臣はなかなか優遇されていたように思いますが、実はそうは甘くありませんでした。
拝領町屋敷は江戸の各所に点在していて、一等地である日本橋や京橋地域にもみられましたが、その多くは本所・深川のような新開地であり、それが幕臣による不動産経営を不安定にしていたのです。当時、地主になっていた幕臣の地代の取り分は、年間で地価の5%が相場でした。
例えば、拝領地が日本橋のような一等地なら一坪につき小判1枚が相場でしたから、仮に五百坪の土地を拝領していれば、五百両の5%で25両の実入りになります。
ちなみに1両で当時の成人男性が1年間で消費する米150キロが購入できたそうですから、25両が大金である事が分かります。しかし、数が多い下級武士は日本橋のような地価の高い土地より、深川や本所のような新開地が割り当てられる事が多く、このような土地は地価も安いので1年で1~2両にしかならず、不動産経営は苦しいものでした。
さらに、そういう土地は空きが出やすく、家賃の不払いなども多い上に火事が起きると長屋まで焼けてしまい、再建費用などの負担増になったのです。
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幕府のセーフティネット
火災や長屋の老朽化の問題が起きると資本がない下級武士では途方に暮れる事になります。そこで、寛政の改革を主導した老中松平定信は、「江戸町会所」を設置し地主が支出する町入用という会費を節約して積み立てて基金を創設し、下級武士が老朽化した長屋を建て直したり、火災で焼けた長屋を再建する資金を五年返済を上限に貸付しました。
その金利は年利3%とかなりの低金利で、後に12%に引き上げられますが、当時の金利が15%程度だった事を考えると、下級武士を優遇した低金利になっています。
また、仮に貸付金が返済できなくても、土地が流れる事はなく土地は町会所が預かって引き続き運営し、貸付金を全て返済し終わった段階で地主に返済されていました。
このように下級武士の不動産経営は、多くは儲けが薄かったもののセーフティーネットや武士の特権に守られていたので、多くの下級武士が幕府に拝領町屋敷を求めました。
そのため、拝領町屋敷を得るまで何年も順番待ちを強いられる不遇な薄録の幕臣も大勢いたようです。
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土地を買い漁る幕臣
拝領町屋敷を得るのに何年も辛抱する薄録の幕臣がいる一方で、財力に余裕がある幕臣の中には、ポケットマネーで不動産を買い漁り蓄財に励む人もいました。
例えば、老中水野忠邦による天保の改革の時期に幕府の最高機密文書を作成していた奥祐筆組頭の大沢弥三郎は地価総額が8630両もの町人地を保有し年間の地代収入が300両以上もありました。
大沢は大変な蓄財家であり、自宅の蔵が貯め込んだ金の重さで傾いたと言われています。
もっとも、武士が町人地を購入しても、そこに住まわせる事が出来るのは武士だけという縛りがありましたが、そんなものは町人にお金を払い町人名義にして土地を購入すれば簡単にクリアできました。江戸時代というと土地の私有は出来ないというイメージですが、なかなかどうして現代に劣らず不動産経営は盛んだったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
江戸は開府から幕末まで膨張をつづけた土地であり、人口も過密で地価は高くなる傾向にありました。幕府は、これに目をつけ生活の苦しい幕臣に町人地を貸し与え、資金の貸し付け制度や、土地が質流れしないようなセーフティーネットを整えたのです。
一方で、幕府が土地を下賜するのを待たずに、ポケットマネーで町人地を買い漁り、地代で蓄財するやり手武士も登場し、江戸は不動産経営に精を出す武士で溢れていて、「武士は食わねど高楊枝」でやせ我慢する人たちばかりではなかった事が窺えますね。
参考文献:江戸の不動産 文春新書
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