今川義元を討ち取った毛利良勝(新介)の指はどこいっちゃったの?

28/12/2021


麒麟にまたがる織田信長

 

日本史に名高い「桶狭間(おけはざま)の戦い」には、いろいろと珍しい点があります。

 

・少人数で大軍を打ち破った劇的勝利という点で、まず珍しい、というところは有名ですが、

他にも、

・「戦国大名本人が討ち取られた」合戦という点でも、比較的珍しい、

という指摘もできます。

 

落ち武者

 

そうなのです。だいたい戦国大名の敗死というのは、自害に追い込まれたり、捕らえられて処刑ないし獄中死になったり、あるいは戦場から逃げる途中に落ち武者狩りに会って急死したりで。

 

今川義元

 

総大将である戦国大名本人を狙った作戦が当たって、まんまとその首を獲って帰ってきたというのは、戦国時代中でもかなり珍しい「成功事例」といえるのです。

 

 

若き頃の織田信長に敗れる今川義元

 

さらに珍しいのは、

・その戦国大名にトドメをさした人物の名前と生涯もきちんと今日まで伝わっている点、となりましょうか。

 

今川義元の首を取り名を上げた毛利良勝(毛利新介)

 

それが桶狭間の戦いを描いたドラマや漫画に必ず名前だけは出てくる、「毛利新介(もうりしんすけ)」という人物。今川義元(いまがわよしもと)に戦場でトドメを食らわせた人物は彼であるとわかっています。

 

毛利良勝(毛利新介)

 

この毛利新介(あるいは毛利良勝(もうりよしかつ)、どのような人物だったのでしょうか?

 

そしてもうひとつ、討ち取られた側の今川義元の最期は、どのようなものだったのでしょうか?

毛利新介に「むなしくやられただけ」だったのでしょうか?

 

詳細に追ってみると、ここには、討ち取ったほうにも、討ち取られたほうにも、なかなか深いドラマがあったことが見えてくるのです!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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「一発屋」なんかじゃない!織田信長の側近としてその後も活躍していた毛利新介!

同年小録(書物・書類)

 

まずは毛利新介のドラマから。

 

「今川義元を討ち取ったという以外に目立った功績はない一発屋」などということをいう人も少なからずいるようですが、とんでもない!

 

彼はその後、織田信長(おだのぶなが)の「母衣衆(ほろしゅう)」に抜擢されています。母衣衆というのは、織田信長お抱えの、いわば親衛隊のような存在。戦場で信長の周りを固め、信長の直接の命令で動く、「主君と一緒にどこまでも」な選抜部隊です。

 

黒母衣衆に抜擢される毛利良勝(毛利新介)

 

この母衣衆に、かの前田利家(まえだとしいえ)佐々成政(さっさなりまさ)も加わっていたと言えば、この「母衣衆」チームの重要性がわかるのではないでしょうか。母衣衆に抜擢された毛利新介は、その後の伊勢攻めや、甲州攻めに転戦しています。目立った功績がないなどと言われますが、重要な戦いに常に召喚されていたということは、織田家中でも継続して重要な人材と扱われていた証拠。

 

単に「今川義元を討った」というインパクトが強すぎたせいで、その後の活躍が一見地味に見えてしまうだけで、立派に「平均以上」の活躍はしていたものと思われます。

 

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最期の瞬間に執念を見せた?毛利新介の指を食いちぎったと伝えられる今川義元!

今川に指を噛み千切られた毛利良勝(毛利新介)

 

ところでこの毛利新介には、ひとつ、興味深い伝説があります。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ったのは事実ですが、その際に、今川義元に「指を食いちぎられた」という伝説があるのです。

 

取っ組み合いになり、夢中になってなんとか首をかききった時、気が付いたときには指がなくなっていた、その指は今川義元の口の中にあった、という感じでしょうか。その「指」が、一本なのか二本なのか、親指なのか小指なのか、詳細がいまひとつわからないのですが、桶狭間の戦い以降の毛利新介が、最前線で華々しいことをしたという話がなく、どちらかといえば信長の「使える側近」として活動していたように見えるのも、

 

もしかしたら、今川義元に食いちぎられた指というのが相当な深手で、その後、刀や槍を最前線で使うには支障の出るレベルだったのかもしれません。この話については、むしろ、「何もできずにあっけなく殺された」という印象論で語られがちな今川義元が、意外なほどに、最期の瞬間に執念の格闘戦を見せていた可能性を窺わせ、興味深い話です。

 

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三国同盟を潰したあの男

 

 

毛利新介の心境を考えれば、指を失ったことはそう悪くもない?

毛利良勝(毛利新介)

 

どの程度の深手だったのかは不明ながら、「指をなくした」という毛利新介。その後半生はどんな心境だったのでしょうか?

 

「あのときは指を食いちぎられて恐ろしい思いをした。もう戦はこりごりだ!」なんて、現代人的な考えをしたとは、やはり、思えませんよね。むしろ、「今川義元を討ち取ったのはオレだ!見ろよ、その時、食いちぎられたのが、これさ!」と、不便になったはずの手を、むしろ誇らしげに、周囲に見せびらかせていたのではないでしょうか?

 

それくらいの剛毅な戦国武者ならばこそ、信長もかわいがって、母衣衆として抜擢して使い続けたのでしょうし。

 

敵は本能寺にあり!と叫ぶ明智光秀b

 

実際、毛利新介は、本能寺(ほんのうじ)の変の際、主君の後を追うように、明智(あけち)軍に挑んで戦死しています。「今川義元を討った男」らしい、豪快な最期だったと言えるのではないでしょうか。

 

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本能寺の変の特集

 

 

まとめ:その毛利新介の指はどこへいっちゃったの?もしや?!

はじ三倶楽部 スマホの誤変換でイライラする参加者(はてな)

 

ところで、気になることがあります。食いちぎられた「毛利新介の指」は、その後、どこへいったのでしょう?

もしかすると、今川義元の生首の、口の中に挟まったままだった?

 

織田信長

 

 

そんな勝手な想像をしてしまいます。というのも、織田信長の性格を考えた場合、毛利新介が、指をくわえたままの今川義元の首を信長のところにもっていったとすると、「いや、これはあっぱれ!新介よ!お前の指を含めて、これは立派な首級じゃ!」と大喜びしたのではないでしょうか?

 

その後、「義元の首をさらした」とあるのですが、その際も毛利新介の指をくわえたままの状態で、「みんなも毛利新介の勇ましさをよく見ておくように!」とさらしていたとしたら?そんな想像を深めていくと、ふと、思いつくことがあります。

 

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ながら日本史

 

 

戦国史ライターYASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

実は、現代の愛知県西尾市に、ひっそりとしたものながら、「今川義元の首塚」と伝わる墓があります。もしかしたら、そこに収められている義元の頭骨の口内に、今でも毛利新介の指の骨も混じっていたりして、などと。桶狭間の戦いという日本史上に残る戦いで、討った者の指と、討たれた者の首が、今では同じ墓で静かにともに眠っているとしたら、なんだか面白い、などと勝手に想像してしまうのですが、さすがに空想がすぎるでしょうか?

 

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通説では「ダメ人物」とされている人について、史料に則しつつも「こういう事情があったのではないか?」と「弁護」するテーマが、特に好きです。愚将や悪人とされている人物の評価を少しでも覆してみたい!がモチベーションです。日本人の「負けた者に同情しがちな心理」大切にしたいと思っています
【好きな歴史人物】
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