NHK大河ドラマ「光る君へ」において、お笑い芸人金田哲さんが演じているのが藤原斉信です。斉信は藤原公任に並ぶ名門の貴公子で一条天皇の時代には、源俊賢、藤原行成、藤原公任と共に四納言として藤原道長を補佐して活躍しました。政治的には道長にべったりで、金魚のフンと批判される一方、斉信は和歌や漢詩、管弦、朗詠に優れ、平安中期の一流の文化人でもあります。今回はそんな藤原斉信の生涯を解説しましょう。
藤原斉信とはどんな人?
藤原斉信は平安時代中期の政治家、歌人です。斉信は藤原北家九条流の太政大臣藤原為光の次男であり、姉の藤原忯子が花山天皇の寵愛を受けた事で、父や兄誠信と共に引き立てを受け従四位上近衛中将まで順調に昇進します。
しかし、姉の忯子は懐妊して間もなく病死。花山天皇も藤原兼家の謀略で出家に追い込まれ斉信の出世の糸口は頓挫しました。その後は、ライバルの藤原公任に先に参議に昇進されるなど屈辱を経験しますが、斉信は逆に政敵である藤原道隆に取り入り、道隆死後は、道長の腹心として全力でバックアップして昇進。
道長の長女で一条天皇の中宮になった彰子に中宮大夫として仕え、兄の誠信を越えて権中納言に昇進。寛弘6年(1009年)ライバルの藤原公任と共に権大納言まで昇進しますが位階では正二位と公任を越えます。これは斉信が道長の長女、中宮彰子の大夫として斉信が仕えていた事が影響しています。斉信は、さらに内大臣や右大臣への昇進を望みますが、道長の腹心であるために道長の息子達よりも出世が遅れる事になります。また、すぐ上の右大臣のポストにいた藤原実資は、90歳近くまで長寿した上、隠居など微塵も考えない仕事人間でした。そのため斉信の大臣昇進は叶わず、長元8年(1035年)に69歳で生涯を閉じました。
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藤原斉信は道長とラブラブ
斉信は権力者藤原道長にベッタリでしたが、政治的な打算のみならず個人的にも親しかったようです。例えば道長が体調を悪くして湯治に行くと言い出すと、斉信も調子が悪くなったと言い出し湯治に同行するレベルでした。道長も斉信を可愛がり、斉信が落ちてきた枝で顔に怪我をしたと聞いた時には二度も見舞いに来ています。それ以外にも斉信は、三条天皇に嫁いだ道長の娘、姸子の屋敷が火災で全焼すると、すぐに自分の屋敷を明け渡して道長に感謝される等、打算ありとしても徹底したサポートを見せています。
もっとも、そんな斉信の様子は、道長とは一線を画した人々には腰巾着として映り、藤原実資は日記で金魚のフンのように斉信を罵倒しています。斉信は歌人としても一流で和歌や漢詩、朗詠や管絃にも通じ文化人としての名声も高く、才媛として知られる清少納言との交流でも知られ、「枕草子」の中にもたびたび登場しその絵に描いたような貴公子の振る舞いが後世に記録されています。
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金田哲が演じる藤原斉信はどんな役?
お笑い芸人、金田哲さんが演じる藤原斉信は一言でいうと平安中期の高級貴族です。彼は藤原北家九条流という平安中期に何人も天皇の皇后や中宮を出した名門の家柄で出世が約束されたエリートでした。同時に斉信は和歌や漢詩、詩の朗詠や琵琶のような弦楽器にも通じ、文化人としての評価が高い人物です。そんな苦労しらずの坊ちゃんなら人生もイージーモードかというとそうではなく、同じ九条流の藤原兼家のせいで姉が嫁いだ花山天皇を出家に追い込まれ、ライバルの藤原公任には先に公卿に昇進される屈辱に塗れます。
しかし、エリートでありながら打たれ強い斉信は開き直り、自分たちを没落に追い込んだ藤原兼家の子である藤原道隆や道長に積極的に近づき側近として尽力、道長に信頼され、今度は権大納言として藤原公任の官位を追い越してしぶとさを見せつけました。斉信は、あまりにも道長にベッタリであったので他の公卿には金魚のフンのように嫌われ嫉妬されますが、意に介する事なく69歳で病死するまで、政治の一線に立ち続けたのです。
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藤原斉信の妻は?
藤原斉信の妻の名前は不詳です。理由は妻の身分が低く、記録する事が憚られた事が考えられます。斉信は妻との間に二男四女を儲けていますが、2人の男子は家を継ぐ事を許されず、どちらも出家して僧侶になっています。そのため、斉信は家を存続すべく、父の為光の子の公信や藤原懐平の子、経任、藤原為任の子、斉長などを養子に取っています。養子の中では経任が大納言に昇進し、経任の養子の公房が公卿に昇進しましたが、それ以外の子孫は振るわず斉信の家系は消滅していきました。
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藤原斉信と百人一首
藤原斉信は歌人でしたが、その歌は百人一首には入っていません。しかし、斉信のライバルだった藤原公任や源氏物語を書いた紫式部、斉信とは親しかったと言われている清少納言の和歌はそれぞれ残されています。藤原公任は「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそながれてなお聞こえれ」と詠みました。これは京都大覚寺にかつてあった滝は枯れてしまったが、その名声は今も世の中に流れているという意味です。紫式部は「めぐりあひて見しやそれとも分かぬまに雲かくれにし夜半の月かな」と詠んでいます。
これは、久しぶりに会った幼友達が、親しく話もしない間に帰ってしまった様子を、雲の間に月が隠れてしまったようだと残念がっている意味です。斉信と親しかった清少納言は「夜をこめて鳥のそらねは、はかるともよに逢坂の関はゆるさじ」という歌を詠んでいます。これは、とてもアダルティな和歌で自分と布団を共にした男が、夜も明けない内にサッサと帰ろうとしているのに憤り、鳥の鳴きまねをしても逢坂の関は決して通さないとしています。鳥の鳴きまねをして関を通り抜けるのは、中国の古典、史記孟嘗君伝に登場する故事「鶏鳴狗盗」に由来していて、清少納言が自分の教養をひけらかしている様子がありありと伝わってきます。当時は、さぞ嫌な女と思われていたのでしょうね。
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藤原斉信の和歌
藤原斉信は、勅撰歌人として「後拾遺和歌集」に一首、他の勅撰和歌集に六首が入首していますが最晩年の作品と考えられる新古今和歌集、釈教に以下のような句があります。「かすならぬいのちはなにかおしからんのりとくほとをしのふはかりそ」これは、自分の命など、ものの数に入らないし惜しいとも思わない。
浮世は空しく、今はただ御仏の教えを慕うばかりである。といったような厭世感が強い暗い和歌です。斉信がこんな和歌を詠んだ背景には、藤原道長の六男、藤原長家に嫁がせた娘が懐妊したものの感染症に罹って早産となり、子どもも亡くなり、娘も病死した事実が影響しているかも知れません。斉信は道長の御堂関白家と血縁関係を結んで家を盤石にしようとしましたが、その矢先に待望の子も死産となり、娘も病死してしまったのです。斉信は最愛の娘の死にショックを受け声も出ず歩くことも難しいほど衰弱したと言われています。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、お笑い芸人、金田哲さんが演じる平安の貴公子、藤原斉信を解説しました。斉信は同じく貴公子として知られる藤原公任と並び称されますが、和歌や漢詩の腕前では公任に負けるものの、政治的には自分達を追い落とした藤原道隆、道長にプライドを捨てて付き従い、道長のみならず、道長の娘の彰子をも中宮大夫としてサポートする事で信頼を得て、ライバルの公任よりも出世する事が出来ました。斉信自身は頑強創建な肉体で、生涯大病もしませんでしたが、最愛の娘と孫を感染症で亡くすなど、晩年には気苦労が多かったようです。
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