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義円とはどんな人?本当に義経の発言で死に追いやられたの?【鎌倉殿の13人】


鎌倉を出禁される源義経

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第十一話「許されざる嘘」では、またしても義経(よしつね)の暗黒面が披露されました。

 

孫子の兵法に詳しく教養もある源 義円が頼朝や政子に気に入られるのに嫉妬した義経は義円を焚きつけ、叔父の源行家(みなもとのゆきいえ)の挙兵に参加させ鎌倉から追い出したのです。しかし、この話、はたして本当の事なのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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義経は無罪!

テレビを視聴するkawauso編集長

 

大河ドラマにおける義円が鎌倉を離れるまでのいきさつはこうです。養和(ようわ)元年(1181年)平清盛が熱病に倒れて死去し、日本全体で反平家の機運が高まります。

 

三日三晩に苦しみ亡くなる平清盛

 

ここで登場するのが、ミスター疫病神(やくびょうがみ)、源行家でした。彼は平家追討の軍を起こそうと、またしても鎌倉にやってきて頼朝の兄弟たちに力を貸してくれと懇願(こんがん)しますが行家の胡散臭さを知っている兄弟たちは誰も協力しません。

 

しかし、義円だけは京都にいた頃に行家の世話になった事があり、心苦しい思いをしていたのです。それを知った義経は人気がある義円を追い払おうと、今こそ叔父上の恩義に報いる時ですと()きつけ義円に行家の後を追わせます。

京都御所

 

義円は義経に頼朝に宛てた手紙を託していましたが、義経はもちろん無視し破り捨ててしまいました。ところが一部始終は鎌倉幕府の憲兵隊長、梶原景時(かじわらのかげとき)に見られていて、景時は一部始終を頼朝に報告。頼朝は激怒し義経に謹慎を申し付けます。

 

景時と義経は後に対立するのでその伏線になっている話なんですが、この話は大河ドラマの創作であり義経が義円を鎌倉から追放したという記録は史実にはありません。

 

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源義経

 

史実の源 義円とは?

筒井順慶

 

実は義円という人物は実在するものの、源頼朝に仕えたとする記録がありません。

 

義円は幼名を乙若丸(おとわかまる)と言い源義朝の八男で生母は常盤御前(ときわごぜん)、義経や阿野全成(あのぜんじょう)は同母兄弟です。平治の乱の頃は乳飲み子で義朝が清盛に敗れると園城寺に入れられ出家させられ、後白河法皇の皇子である円恵法親王(えんえ・ほっしんのう)坊官(ぼうかん)でした。

 

源義朝 鎌倉殿の13人

 

何度かの改名を経て、父義朝の一字を取り義円と名乗っているので源氏再興の意志があったのでしょう。

 

墨俣川の戦い

 

治承(じしょう)5年(1181年)叔父の源行家が尾張で挙兵すると従軍し墨俣川の戦いに参加します。この時、義円は単騎で敵陣に夜襲を掛けようとして失敗、平家の家人高橋盛綱と戦った末に討ち取られました。享年27歳。

 

義円には義成(よしなり)という遺児がいて、尾張国愛知郡の郡司(ぐんじ)だった愛智慶範(あいちのよしのり)の孫にあたります。慶範は義成を源氏の貴種(きしゅ)として大事に養育し長じた義成は愛智蔵人を名乗って尾張愛智氏の祖になったという事です。

 

史実の義円の記述はこれくらいで、頼朝との接点もなく鎌倉幕府の公式文書である吾妻鏡(あづまかがみ)にも出てきません。なので義経が義円を鎌倉から追い出したのはフィクションと考えられるのです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

 

本当は頼朝の命令で行家に従軍した?

打倒平家を目指す北条義時と源頼朝

 

こうしてみると、義円は自分の意志で叔父の行家に従い墨俣川の戦いで討死したと考えられますが、別の研究では義円が頼朝に従い鎌倉に入り、その後、源行家が尾張で挙兵したので、頼朝の命令で援軍に向かったとする話もあります。

 

武田信義 鎌倉殿の13人

 

頼朝の兄弟は全員ストレートに頼朝の指揮下に入ったのではなく、例えば源範頼(みなもとののりより)も、最初は頼朝ではなく武田信義(たけだののぶよし)の一族である安田義定(やすだのよしさだ)と連動して故郷である遠江(とおとおみ)で戦っていたのですが、武田信義が頼朝と同盟関係を結んだ経緯から寿永2年(1183年)援軍として鎌倉に派遣され、以後、武田氏が頼朝の配下となる過程で主従が逆転したと考えられます。

 

 

ドラマの範頼は道に迷って到着が遅れたと言っていましたが、実際にはまだ頼朝の配下ではなく安田義定に仕えていたのです。頼朝は自分の兄弟でも特別扱いせずに、どんどん前線に出して家来として使うので、あるいは義円も源行家を加勢するように頼朝に命じられたかも知れません。

 

だとすれば義経は、とんだ濡れ衣をきせられた事になりますね。

 

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はじめての平安時代

 

 

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は義円について解説してみました。

 

頼朝が、ひな鳥だと思っていた鳥を鳴かないつぐみだと見破るなど博識ぶりを見せていた義円ですが、後白河法皇の皇子に仕えていた事もあり、それなりの教養を身に着けた人だったのかも知れません。大河ドラマでの博識ぶりも、そういう史実のバックボーンを活かしたものだと考えられますがどうでしょうか?

 

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源頼朝

 

 

 

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