NHK大河ドラマ「光る君へ」において、道長の妻となる倫子の父として登場するのが源雅信です。権謀術数が渦巻く朝廷において雅信がいつものほほんとしているのは、彼が宇多天皇を祖父に持つ高級貴族であった事と無縁ではないでしょう。しかし、史実の雅信は、ただ育ちが良いだけの好人物ではなく藤原摂関家に二重の意味で大きな影響を与えていました。
この記事の目次
光る君へ源雅信役は誰?
源雅信を演じるのは俳優の益岡徹さんです。益岡さんは山口県下関出身で181センチという長身を活かし高校時代はラグビーに打ち込んでいました。しかし文化祭の8ミリ映画でラーメン屋のお客として出演したのを切っ掛けに演劇に興味を持ち、早稲田大学在学中はサークル活動でアングラ演劇に傾倒。黒沢明の映画「影武者」で足軽役のエキストラも経験しています。
1980年に大学を卒業後、仲代達矢の無名塾に応募し200倍の難関を突破して第四期の塾生となり、芸能界デビューしNHK大河ドラマでは、翔ぶが如くや毛利元就、軍師官兵衛に出演し、今回の光る君へが四作目の出演になります。
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源雅信の読み方
源雅信はNHK大河ドラマにおいてはマサノブと発音されていますが、近年発見された史料により雅信の漢字にマサザネと振り仮名があった事から、正確にはマサザネが正しいようです。
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源雅信の果たした役割は?
源雅信は平安中期の高級貴族です。雅信の父は宇多天皇の第八皇子である敦実親王で、雅信は敦実親王の三男として誕生したので祖父が天皇という由緒正しい家柄でした。宇多天皇には男子が多かったので敦実親王の子の雅信は16歳の時に臣籍降下され源姓を受けて、源雅信と名乗りますが、元は皇族である雅信は蔭位によって若くして従四位の叙位を得て、以後も急速に出世していきました。源雅信の果たした役割には天皇の地位を守り、藤原摂関家の横暴を阻止したものがあります。
皇族から臣籍降下した雅信は天皇と近い関係にありました。そのため藤原摂関家の権力独占に嫌気がさしていた円融天皇が雅信を信頼し、貞元2年(977年)には左大臣を兼ねる関白に就任しています。その後の雅信は16年間に亘って左大臣であり続け、花山天皇、一条天皇の時代も天皇を補佐し続けます。一方で右大臣の藤原兼家は雅信が上司であるため思うように権力を振るう事が出来ず、結局、右大臣を辞職しています。このように雅信は、藤原摂関家が自由に権力を振るう事を制止したストッパーの役割を果たしました。このように自分の役割を果たした雅信ですが、性格はあまりにも真面目で公務中は冗談一つ言わないとして円融天皇に敬遠されていたそうです。
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源雅信の妻は?
源雅信の妻は中納言藤原朝忠の娘、藤原穆子です。穆子の産んだ娘である倫子は、後に藤原道長を婿に迎えました。この結婚に夫である雅信は反対で、もっと位の高い貴族に嫁がせようと考えていましたが、穆子が強引に縁談を進めたそうです。穆子の狙い通り、結婚後の道長は、兄二名の急病もあってトントン拍子に出世して藤原氏長者の地位を獲得。さらに倫子の娘である彰子は一条天皇に嫁ぎ、後一条天皇と後朱雀天皇の2人の皇子を産んでいます。このような経緯から道長は穆子に頭が上がらず常に親孝行を尽くし、穆子は86歳で大往生しています。
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天皇と娘を結婚させたのは誰?
天皇に娘を嫁がせて皇子を誕生させ、天皇に即位させて外祖父として権力を握るという形式は藤原摂関家において顕著でしたが、同じような事は武家である平清盛もやっているので、古代から中世の日本で権力を握る手段の一つでした。源雅信も娘の倫子を花山天皇に嫁がせようと考えていましたが、花山天皇が二年足らずで出家して退位したので、成功しなかった経緯があります。
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源雅信の家系図
源雅信の祖父は宇多天皇です。宇多天皇には多くの子がいて、その孫の時代には臣籍降下で多くの王子が源姓を受けて宇多源氏と呼ばれるようになっていきました。雅信の子孫は、それぞれ庭田、綾小路、五辻、大原、慈光寺に枝分かれして公家として名を残しますが、一方で、参議兼近江守だった四男源扶義の子孫は近江国に定着して近江源氏となり、武士の佐々木氏へ発展、鎌倉幕府の成立後、佐々木氏は、六角氏、京極氏に分派、南北朝時代の守護大名佐々木道誉や戦国大名の六角定頼、明治時代には乃木希典等、日本史に名を刻む英傑を出しています。
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源雅信の功績
源雅信は、天皇の意を受けて藤原摂関家が政治を思うがままに動かすのを阻止するストッパーの役割を果たしましたが、同時に藤原摂関家を助ける功績も残しています。それは源雅信の娘である倫子が摂関家の藤原道長を婿に取った事が原因でした。最初、雅信は道長が兼家の五男で、出世の見込みが薄いとして倫子と道長の結婚に乗り気ではありませんでした。しかし、妻である穆子が縁談を進めたために渋々承知しています。
雅信には、土御門邸という大きな屋敷や荘園から入る収入があり、とても裕福でした。道長は雅信の死後、これらの財産を自分のものとして、甥の藤原伊周との権力闘争に勝ち上がり、藤原摂関家の頂点に立ちました。雅信は一方で道長の父である右大臣兼家が権力を振るうのを制止しながら、一方では娘の倫子と道長を結婚させ、道長に経済的な基盤を残し摂関家が繁栄する礎を準備する功績を残しました。
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源雅信の死因は?
源雅信の直接の死因は不明ですが、雅信自身は当時としては高齢である73歳まで長生きしています。また、65歳を過ぎた頃から雅信は足腰の不調を訴えていますが、天皇は引退を許さず、69歳になった頃には牛車に乗ったまま参内してよいと特別な許可を得ていました。73歳になった頃には病により辞職を願い出ていますが天皇は許さず、結局、無断で出家して、まもなく世を去ってしまいました。このことから雅信の死因は老衰死が一番妥当かと思われます。
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一条天皇の左大臣は誰?
一条天皇期の左大臣は最初、源雅信でした。雅信が現役のままで病死すると、雅信の弟である源重信が左大臣となり、重信の次に藤原道長が11年間左大臣を勤めています。
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光る君へで左大臣は誰?
NHK大河ドラマ「光る君へ」では紫式部と藤原道長の生涯を中心にドラマが展開しているので、左大臣は一人ではありません。ドラマで最初に登場する左大臣は源頼忠で、次の左大臣が源雅信、次が源重信で4人目が主人公である藤原道長です。このように「光る君へ」では、左大臣は都合4人登場する事になります。
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源雅信は源氏の始祖?
源雅信は源氏の始祖の一人ではありますが、全ての源氏の共通始祖ではありません。源氏とは天皇が自分の子や孫を臣籍降下して家臣の地位に落す時に、与えられる姓の一つであり、これら天皇の子孫を始祖とする源氏には、嵯峨源氏、清和源氏、淳和源氏、村上源氏、花山源氏等が存在します。
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源雅信と源頼朝の関係性は?
源雅信と源頼朝には直接の関係はありません。ただ、雅信の孫、源成頼が近江に土着して武士化していき、平安時代末期に子孫である佐々木秀儀が登場しました。治承四年(1180年)源頼朝が伊豆で平氏打倒の兵を挙げましたが、味方になる武士はほとんどいませんでした。この時、秀儀は頼朝の勝利に賭けて、息子の定綱、経高、盛綱、高綱を頼朝に従わせ、頼朝は挙兵に成功。その手柄で秀儀は近江の領地を安堵されています。源雅信の子孫が頼朝の鎌倉幕府成立に貢献したのです。
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まとめ
今回は、源雅信の功績や家族、子孫について解説しました。雅信は、のほほんとしているように見えて藤原摂関家の横暴に対するストッパーになったり、逆に藤原道長の出世を助けたり、複雑な動きをしている事が分かりますね。
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