NHK大河ドラマ「光る君へ」において藤原道長の嫡妻になったのが源倫子です。紫式部と違い、才気煥発という雰囲気ではありませんが、おっとりとして家庭的な雰囲気は家を守る妻として強い存在感を発揮しています。今回は源倫子の史実における活躍や系図について解説します。
この記事の目次
源倫子とは?
源倫子は藤原道長の正室になった女性です。彼女は宇多天皇を祖父に持つ左大臣源雅信の娘として生まれ、大切に育てられたので知識と教養ある女性に成長しました。父の雅信は倫子を天皇に嫁がせ皇室との関係を強化しようとしましたが、生母の藤原穆子は藤原道長の将来性に目をつけ、倫子と道長の縁談を決めてしまいました。倫子と道長の関係は良好で倫子は二男四女の六人の母となり、娘四人はそれぞれ天皇に嫁ぎ、長女の彰子と四女の嬉子は将来の天皇を産むなど、藤原摂関家の全盛期を築きました。
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源倫子は何をした人?
源倫子の最大の功績は、夫の道長が権力を握る為に絶対必要な娘を4人も産んだ事です。当時の社会で貴族が権力を握るには、自分の娘を天皇に嫁がせて男子を産んでもらい、その男子を天皇に即位させて、自身は天皇の外祖父として幼い天皇に代わって政治をおこなうのが早道でした。
倫子は道長の期待に応え、彰子、姸子、威子、嬉子の4人の娘を産み、それぞれの娘が天皇に嫁ぎました。そして一条天皇に嫁いだ彰子は後一条天皇と後朱雀天皇を産み、四女の嬉子は後冷泉天皇を産みました。道長は倫子のお陰で3人の天皇の祖父となり、揺るぎない権力を握ったのです。
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藤原道長の妻は大河ドラマで誰が演じる?
源倫子を演じているのは黒木華さんです。大阪府高槻市出身で幼い頃より母に連れられて映画や芝居を見て育ち、その後兄弟や従兄弟と一緒に地域の児童劇団に参加し演技を褒められた事が切っ掛けで演技が好きになったそうです。高校は演劇の名門、追手門学院高等学校に進学して演劇部に所属し、「演劇部のエース」として1年から3年まで主役を務め、高校卒業後は映画製作や演劇を学べる京都造形芸術大学映画学科俳優コースに進学。
大学在学中の2009年に「野田秀樹演劇ワークショップin大阪に参加。2010年にオーディションに合格して初舞台に立ち演劇界の期待の新人として注目を浴びます。2011年以降は映像作品にも進出、派手さがない地味な顔立ちながら芯が強く、意志を貫くまっすぐさから、昭和的、純日本的なイメージです。今回のNHK大河ドラマ「光る君へ」でも、その純日本風の顔立ちが配役に影響したと考えられます。
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「男は妻がらなり」とはどういう意味?
「男は妻がらなり」とは、藤原道長が言った言葉で、男の価値は妻次第で決まるという意味だそうです。この言葉は道長の息子、藤原頼通が村上天皇の孫娘である隆姫女王の婿になった時、道長が「畏れ多い事ながら男子の価値は妻次第で決まりますから」と婚姻を非常に喜んだ逸話が元でした。
この時代の家柄が良いとは、いかに天皇の血筋に近いかという意味で、天皇の孫娘である隆姫女王なら全く不服はありませんでした。逆に言えば、どれだけ愛し合っていても身分が低い女性を正室に迎える事は、高級貴族にとって致命的でもあったのです。
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天皇と娘を結婚させたのは誰?
藤原道長には正室の倫子との間に四人の娘がいましたが、この4人はそれぞれ一条天皇、三条天皇、後一条天皇、後朱雀天皇に嫁いでいます。4人の娘の中で彰子は一条天皇との間に後一条天皇と後朱雀天皇を産み、嬉子は後朱雀天皇との間に後冷泉天皇を産みました。娘を嫁がせたのは道長の政治力ですが、娘を産んだのは妻の倫子なので、倫子の功績は大きいと言えるでしょう。
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紫式部と源倫子の関係は?
NHK大河ドラマでは、道長の元カノと正室という微妙な関係の倫子と紫式部ですが、実際にはどうだったのでしょうか?紫式部日記によると、道長は孫の敦成親王(後の後一条天皇)の誕生五十日の祝いの時に、娘の彰子に仕えていた紫式部に対して歌を詠むように袖を引っ張って強要した事が描かれています。
この時、道長はとても酔って上機嫌であり娘の彰子に「中宮(彰子)様は私のような立派な父を持って幸福でしょう?母上もそう思っているぞ」と、かなり思い上がったセリフを吐いたようです。この時、倫子が耐えきれなくなったように部屋を出て行き、酔いがさめた道長は、慌てて倫子を追いかけたと言われています。研究者には倫子が紫式部の袖を引いた道長に嫉妬して、部屋を出て行ったと解釈して、倫子が紫式部に嫉妬したのではと考える人もいて、実は道長と紫式部は愛人関係にあったのではないかと推測する根拠になっています。
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源倫子と長寿の関係性
源倫子は90歳という当時としては、かなりの長生きをして大往生しました。これは遺伝的な要因が大きいと考えられ、倫子の父、源雅信は73歳、倫子の母、藤原穆子は86歳の長寿で病死しています。ちなみに倫子の祖父である敦実は75歳と当時としては長命で、雅信の弟の重信も75歳と長生きです。倫子の娘には早死にも多いのですが、長女の彰子は87歳まで長生きし、長男の頼通は83歳、次男、教通も80歳と長寿でした。平安時代の医学は医学とまじないが混在した未発達なものであり、病気になると20代、30代で亡くなる権力者も多くいました。
そのような社会では健康で長寿の家系というのは、それだけで権力を長く保持していける優位性を持っていたのです。その為、倫子が両親から受け継いだ長寿の遺伝子は道長から息子の頼通、教通の時代まで繋がる摂関政治の全盛期80年間を縁の下から支えたと言えるかも知れません。
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源倫子の死因
源倫子の死因は老衰と考えられます。彼女は90歳まで存命で、その間に夫の道長と長女の彰子を除く3人の娘を病気で失い76歳で出家しますが、その後も14年間生き続けました。これらの事を考えると精神的なショックで寿命が縮んだとは考えにくく、また、大病をした様子もないので高齢になって身体機能が衰えて老衰で死んだと考えるのが自然ではないかと考えられます。
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源倫子の家系図
源倫子は、59代宇多天皇の曾孫です。父である源雅信は元々は皇族で二世王でしたが、16歳の時に臣籍降下して源姓を与えられて源雅信と名乗りました。家臣の身に格下げされたと言っても、天皇の孫である事に違いはなく雅信は急速に出世して最高ポストである左大臣を務め、叔父の重信も右大臣、そして左大臣を勤める名門でした。また雅信は土御門邸のような大きな屋敷を構え、多くの荘園をもつ裕福な貴族でもあります。
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源倫子の子孫
源倫子の子孫は娘の彰子が産んだ後一条天皇や後三条天皇を通して、平安末期の白河上皇や鳥羽上皇、後白河法皇、後鳥羽上皇へ繋がり、現在の天皇まで連綿と続いています。また、倫子が産んだ男子である頼通や教通の子孫は、保元の乱の首謀者となった悪左府、藤原頼長や父の藤原忠実を通して五摂家、戦前の総理大臣、近衛文麿まで血筋が繋がっています。このように倫子の子孫を辿るのは、平安中期以降の皇室の歴史と、藤原五摂家の歴史を辿るのと同じ事なのです。
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平安時代は長生きだったの?
平安時代の平均寿命は決して長くなく、男性が33歳、女性が27歳と推計されているようです。現在と違い女性の平均寿命が男性よりも短いのは、出産に伴う体力の消耗や産褥熱のような感染症で命を落とす事が多かったせいかも知れません。
女性でなくとも、四百年も続いた平安時代は、天変地異が相次ぎ、飢饉や疫病が流行した事が何度もあり、日本人の寿命は大きく削られる事になりました。食事面では優遇されていたかに見える貴族も、仏教の影響で牛や豚を食べなくなる一方で、物流の問題で新鮮な魚や野菜はあまり手に入らず、干し魚や漬物のような食材が多く塩分過多になり、また酒宴が多く、甘い酒を多く飲んだ事から糖尿病を発症して、合併症で早死にするケースが多かったようです。そもそも平安時代の医学はまじないと未分離であり、治療法も限られていた事から、現在では薬で簡単に治る病気でも命取りになるケースがあったのです。
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光源氏のモデルは誰?
源氏物語の主人公、光源氏のモデルは藤原道長であるとする説もありますが、道長は光源氏と違い左遷された事がないので、どうやら複数の人物の特徴を拾い集めて創作した人物であるようです。光源氏の生涯の参考とされた人物には、道長の父である兼家や道長の甥である伊周、源高明、敦道親王などがいます。
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藤原道長全盛期は何年?
藤原道長の全盛期は、娘の彰子が一条天皇の皇子である敦成親王を産んだ寛弘5年(1008年)から道長が病死する万寿四年(1028年)までの20年間です。すでに長徳二年(996年)に甥でライバルの藤原伊周を左遷に追い込んでいた道長ですが、一条天皇に嫁いだ娘の彰子には中々男子が生まれず、一条天皇の皇子は中宮定子との間に出来た敦明親王だけでした。そのため、このまま彰子に男子が誕生しなければ、定子とは兄妹である伊周の復権があり得たのです。しかし、彰子に男子が誕生した事で天皇の外祖父である道長の地位は揺るがなくなりました。道長は寛仁元年(1017年)に息子の頼通に摂政と藤原氏長者の地位を譲りますが、大御所として権力を維持し政権は20年間の長きに亘りました。
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まとめ
今回は藤原道長の嫡妻、源倫子の性格と長生きの秘訣について解説しました。長生きの秘訣について詳しい事は不明ですが、両親ともに長寿で父の兄弟にも長寿が多い事から、良家の子女らしく性格がおっとりしていて、あまり怒る事が無かったのが健康長寿に繋がったのかも知れません。
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