北条政村は鎌倉幕府の2代執権、北条義時の四男です。生母は義時の後妻にはいった正室の伊賀の方でしたが、政村20歳の時に義時が急死。
伊賀の方は嫡男の政村を3代執権にしようとして、尼将軍北条政子と対立し敗れます。しかし、政村については何も知らなかったとしてお咎めはなく、その後も鎌倉幕府で要職を歴任、運命のいたずらで還暦を迎えた時に執権に就任してしまうのです。
今回は数奇な人生を生きた鎌倉幕府7代執権、北条政村を解説します。
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この記事の目次
畠山一族が滅びた日に誕生
北条政村は元久2年(1205年)6月22日、畠山重忠の乱で畠山親子が討伐された日に誕生します。母は義時の後妻伊賀の方で、異母兄弟には、後の3代執権、北条泰時や北条朝時がいます。
建保元年(1213年)和田合戦から7か月余り後、政村は9歳で元服し四郎政村と名乗ります。この時の烏帽子親は三浦義村でした。義時は政村を非常に溺愛したと吾妻鏡には書かれています。
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20歳の時に父、義時が急死
貞応3年(1224年)政村20歳の時に義時が急死します。
義時葬儀時の序列では、政村と弟の実泰は、上の兄で側室の子である有時の上位ですが、前の正室の子である朝時や重時よりは下位に記されています。
これは、政村が正室の子として認められつつも、同じ正室の子である朝時や重時よりは格下の庶子扱いという微妙な立ち位置でした。
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生母伊賀の方に3代執権に擁立されるが敗れる
しかし、母が亡くなり後ろ盾がない異母兄弟の朝時や重時と違い、伊賀の方は後妻とはいえ、義時の正室であり義時に引き立てられた兄、伊賀光宗や、娘が嫁いだ一条実雅などもいました。
伊賀の方は次の執権は当然、嫡男の政村であるとして政権獲得の根回しを開始。兄の光宗と協力して、政村を3代執権に推すとともに、娘婿の一条実雅を五代将軍にしようと画策し、政村の烏帽子親でもある三浦義村の協力を取り付けていました。
ところが、ここで権力が北条氏から離れる事を危惧した尼将軍政子が待ったをかけます。政子は幕府重鎮の大江広元と協議して、承久の乱で活躍し御家人の人気もある北条泰時41歳を京都の六波羅から呼び戻して、三代執権に推したのです。
さらに政子は自ら三浦義村の屋敷に向い、義村に政村を担いで謀反するつもりかと問いただし、恐怖した義村は平身低頭して泰時に従う事を誓いました。武力の後ろ盾を失った伊賀の方は失脚が確定、伊賀の方は伊豆に流され、まもなく急死します。
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ライバルの泰時に助命され配下として仕える
担がれた政村も罪を免れまいと思われましたが、執権泰時は政村を計画に無関係として、そのまま配下として使う事にし政村の首が繋がります。泰時の寛大な措置の背景には、謀反を起こさないまでも、泰時に対して反抗的な北条朝時に対する配慮があったようです。
政村は延応元年(1239年)35歳で評定衆になり翌年には筆頭になります。ちなみに評定衆というのは、泰時が組織した13人からなる鎌倉幕府の最高意思決定会議の事です。
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泰時の死後、揺れ動く北条得宗家
仁治3年(1242年)執権泰時が死去し、孫の経時が4代執権に就任しました。しかし、経時は健康に恵まれず寛元4年(1246年)22歳で病死。子供が幼かったため弟の時頼が19歳で5代目執権になります。
年少の執権が続いた事で、有力御家人の三浦一族と時頼の外戚である安達氏が衝突。宝治元年(1247年)宝治合戦が起こり三浦一族が滅亡しました。
この間、政村の動向は不明ですが、北条氏に次ぐ地位を持っていた三浦一族が滅んだ事で政村の地位は向上していきます。
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60歳で執権になり諸問題を処理
建長8年(1256年)連署だった北条重時が出家し引退。政村が連署を引き継ぎます。執権北条時頼は、この頃、赤痢に感染して長患いした事で執権を退き、甥にあたる北条長時を6代執権に指名します。
弘長3年(1263年)北条時頼が死去。翌年文永元年(1264年)には執権長時が病で出家しました。この時、時頼の子、時宗は14歳でまだ執権職を継ぐには若すぎると見られたので協議の末に60歳の政村が7代執権に就任します。
40年前、伊賀氏の変で生母に執権に擁立されてより紆余曲折を経て政村は北条家の頂点に立ちますが、この頃には、執権の地位よりも北条得宗家に権力が集中していて、執権に以前ほどの権力はありませんでした。逆に時宗は連署となり、政村、北条実時や安達泰盛らを寄合衆のメンバーに加え、幕政中枢の人物として宗尊親王の京都追放等を処理しています。
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蒙古襲来を契機に執権を退く
政村が執権になって4年後の文永5年(1268年)モンゴル帝国より国書が届きます。
開国か戦争か?という日本史上未曾有の国難を前に鎌倉幕府は権力一元化を図り、政村は執権職を18歳に成長した時宗に譲り、再び連署としてサポートし侍所別当も務めました。
政村は、時宗の異母兄弟で六波羅探題で勢力を持っていた北条時輔や、九州守護職だった北条時章や北条教時に謀反の疑いをかけ粛清する二月騒動を処理。翌年、文永10年(1273年)に出家し常盤院覚崇と号し同月に69歳で死去します。
ドラマなどでは、老獪でセコイ部分もある狸ジジイとして描かれる政村ですが、実際は和歌や典礼に精通した教養人で公家からも敬愛され、亀山天皇が弔問の使者を送るなど、その死を悼まれています。
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日本史ライターkawausoの独り言
北条政村は、20歳にして伊賀氏の乱に巻き込まれた経緯から、非常に慎重で沈着冷静、感情を表に出さない人だったようです。
それだけ周囲を警戒し、変な野心や不満を見せず仕事をひたすらにこなしていたのでしょうが、真面目な仕事人間である事が幸いし、ライバルであった泰時に引き立てられ、その後も歴代執権に重宝されて累進していき、遂には執権に上り詰める幸運に恵まれました。
執権職は僅かに4年間でしたが、亡き母の悲願を果たせて政村としては幸福だったかも知れませんね。
参考:ウィキペディア
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