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もし源義経が奥州で殺されず鎌倉幕府と対峙していたら?藤原秀衡の明かされなかった真意を推測

26/11/2022


 

コメントできるようになりました 織田信長

激怒した頼朝、義経討伐を命じる

 

源義経は、なぜ殺されたのか。いろんな要因が重なり合っているので難しい話です。

 

源義経に敗れた木曽義仲

 

ただ個人的には、源平合戦でよくも悪くも「勝ちすぎて」しまい、頼朝の目から見れば邪魔になってきていたということと、その源平合戦の終了後、

 

源義経と頼朝を対立させようとした後白河天皇

 

後白河法皇から冠位を授けられ、あっけなく後白河派に取り込まれてしまうという挑発的な挙に出たこと(本人にはそんな深謀があったわけではなさそうとはいえ、頼朝にはそう見えたであろうこと)、この二点が大きかったのではないでしょうか。

 

兄と喧嘩して逃げてきた源義経を匿う藤原秀衡

 

すっかり頼朝に追われる身となり、かつて潜伏していた奥州藤原氏のもとに再び逃げこんだものの、さらに運が悪いことに、義経に協力的だった藤原秀衡が急逝し、その息子の泰衡が頼朝からのプレッシャーをかけられ、義経を殺害してその首を鎌倉に送るという判断をしてしまいます。藤原泰衡の手勢に襲撃され、悲劇的な最期を遂げたのが、史実の義経。

 

源義経

 

ですが、ここで、ひとつ、イフ展開を考えてみましょう。源義経が、このとき、藤原泰衡に殺されていなければ、その後の歴史はどうなっていたでしょうか?これは単純な空想世界の「イフ」だけとも限りません。当時、この戦略を具体的に練っていた、と考えられる人物がいるのです。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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藤原秀衡の遺言「義経を総大将にせよ」の真意を推測する

藤原秀衡 鎌倉

 

カギとなるのは、藤原泰衡の先代、藤原秀衡の遺言として伝えられているコトバです。

 

家督を継ぎ奥州17万騎の総大将になった藤原秀衡

 

藤原秀衡といえば、今も平泉にミイラとして眠る、奥州藤原氏の栄華を象徴する人物。歴史的な評価としても、もし藤原秀衡が急逝することがなければ、つまり、もう少し秀衡の時代が続いていれば、日本史はまた変わったのではないか、などと惜しまれる人物です。

 

源義経が大好きな藤原秀衡

 

その名君秀衡が泰衡への遺言として残したのが、「義経を総大将にして、力を合わせて頼朝と対峙せよ」というコトバとされています。実際の歴史では、泰衡はけっきょく、先代のこの遺言には従いませんでした。

 

戦国史ライター YASHIRO-ver2

 

ですが秀衡のこの遺言が本当だとしたら、秀衡自身のアタマの中には、義経を大将に据えて泰衡と共闘させ、頼朝に対抗するプランがすでに具体的にできていたのではないでしょうか。

 

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 考えられる戦略は「専守防衛」プラン?

Schipperke(スキッパーキの子犬)はてなver

 

そのプランは具体的にはどのようなものだったのか?

 

それは今となっては推測するしかありませんが、冷静な秀衡のこと。義経を据え置いたところで、いくらなんでも源頼朝に勝てるとは思っていなかったでしょう。

 

次々と奇跡を起こす天才武将・源義経

 

よって、あり得るのは、義経に軍事を任せての専守防衛構想。軍事の才能に恵まれ、かつ源平合戦を経て経験も積んでいる義経を筆頭に軍事改革を行い、さしもの頼朝も手を出さない防衛力を固めてしまう。

 

源義経の八艘飛び

 

あとは、その状態で何年も、もしかしたら何十年も、「鎌倉にとっては邪魔モノだが、かといってうかつに征討もできない」独立勢力として奥州で屹立し続ける。

 

関ヶ原から撤退をする島津義弘

 

これは、後世において、徳川家が関ヶ原で敵対したはずの毛利と島津を、取り潰しにまだは持ち込めなかったように、「鎌倉に嫌われているが、とり潰しもできない」有力勢力として、後世でいう長州藩や薩摩藩のような「ぶきみなダークホース」として、時機がくるまで生き続ける戦略です。

 

takamori-saigou-chest(西郷隆盛のチェスト)

 

また、このような独立勢力が地方にあり続けると、幕末の長州藩と薩摩藩に倒幕派の志士たちが集まったように、頼朝とソリがあわない人材や、頼朝の粛清を逃れた人材が、じりじりと奥州に集まってくることになります。このような独立割拠した勢力でいつづければ、鎌倉で何か政治的混乱があった時に、ひと暴れできるくらいに大きくなれたかもしれません。

 

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北条義時

 

 

まとめ:このプランだと北条氏時代になってからが面白い?

2代目執権に就任する北条義時

 

そうなると、面白いのは、鎌倉の将軍家が途絶え、北条家の時代が始まる時。

 

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日本史ライターYASHIROの独り言

戦国史ライター YASHIRO-ver3

 

そのとき、老いたりとはいえまだ元気な義経か、あるいはその意志を継いだ源姓の武将が、奥州藤原氏の資金力をバックに動ける状態になっていたはずです。

 

十三人の合議制の仕組みを作った北条義時

 

史実では、北条家が源将軍家から権力を奪取した際、特に大きな反対勢力はもう残っていませんでしたが、このイフ世界では、「義経派」が東北に頑強に結集していることになります。

 

行政権を握り敵が多くなった北条義時

 

このような勢力が「鎌倉の北条家に異議あり!」となだれこんできたら、日本史はあまりにも大きく変わってきますし、源義経にも、もう一度、華やかな活躍ができるチャンスが巡ってきたことになると思いますが、いかがでしょうか?

 

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YASHIRO

通説では「ダメ人物」とされている人について、史料に則しつつも「こういう事情があったのではないか?」と「弁護」するテーマが、特に好きです。愚将や悪人とされている人物の評価を少しでも覆してみたい!がモチベーションです。日本人の「負けた者に同情しがちな心理」大切にしたいと思っています
【好きな歴史人物】
南朝側の武将全員!

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