源義経は、なぜ殺されたのか。いろんな要因が重なり合っているので難しい話です。
ただ個人的には、源平合戦でよくも悪くも「勝ちすぎて」しまい、頼朝の目から見れば邪魔になってきていたということと、その源平合戦の終了後、
後白河法皇から冠位を授けられ、あっけなく後白河派に取り込まれてしまうという挑発的な挙に出たこと(本人にはそんな深謀があったわけではなさそうとはいえ、頼朝にはそう見えたであろうこと)、この二点が大きかったのではないでしょうか。
すっかり頼朝に追われる身となり、かつて潜伏していた奥州藤原氏のもとに再び逃げこんだものの、さらに運が悪いことに、義経に協力的だった藤原秀衡が急逝し、その息子の泰衡が頼朝からのプレッシャーをかけられ、義経を殺害してその首を鎌倉に送るという判断をしてしまいます。藤原泰衡の手勢に襲撃され、悲劇的な最期を遂げたのが、史実の義経。
ですが、ここで、ひとつ、イフ展開を考えてみましょう。源義経が、このとき、藤原泰衡に殺されていなければ、その後の歴史はどうなっていたでしょうか?これは単純な空想世界の「イフ」だけとも限りません。当時、この戦略を具体的に練っていた、と考えられる人物がいるのです。
藤原秀衡の遺言「義経を総大将にせよ」の真意を推測する
カギとなるのは、藤原泰衡の先代、藤原秀衡の遺言として伝えられているコトバです。
藤原秀衡といえば、今も平泉にミイラとして眠る、奥州藤原氏の栄華を象徴する人物。歴史的な評価としても、もし藤原秀衡が急逝することがなければ、つまり、もう少し秀衡の時代が続いていれば、日本史はまた変わったのではないか、などと惜しまれる人物です。
その名君秀衡が泰衡への遺言として残したのが、「義経を総大将にして、力を合わせて頼朝と対峙せよ」というコトバとされています。実際の歴史では、泰衡はけっきょく、先代のこの遺言には従いませんでした。
ですが秀衡のこの遺言が本当だとしたら、秀衡自身のアタマの中には、義経を大将に据えて泰衡と共闘させ、頼朝に対抗するプランがすでに具体的にできていたのではないでしょうか。
こちらもCHECK
-
「源義経の生存説」本当は蝦夷地(北海道)に脱出していた?
続きを見る
考えられる戦略は「専守防衛」プラン?
そのプランは具体的にはどのようなものだったのか?
それは今となっては推測するしかありませんが、冷静な秀衡のこと。義経を据え置いたところで、いくらなんでも源頼朝に勝てるとは思っていなかったでしょう。
よって、あり得るのは、義経に軍事を任せての専守防衛構想。軍事の才能に恵まれ、かつ源平合戦を経て経験も積んでいる義経を筆頭に軍事改革を行い、さしもの頼朝も手を出さない防衛力を固めてしまう。
あとは、その状態で何年も、もしかしたら何十年も、「鎌倉にとっては邪魔モノだが、かといってうかつに征討もできない」独立勢力として奥州で屹立し続ける。
これは、後世において、徳川家が関ヶ原で敵対したはずの毛利と島津を、取り潰しにまだは持ち込めなかったように、「鎌倉に嫌われているが、とり潰しもできない」有力勢力として、後世でいう長州藩や薩摩藩のような「ぶきみなダークホース」として、時機がくるまで生き続ける戦略です。
また、このような独立勢力が地方にあり続けると、幕末の長州藩と薩摩藩に倒幕派の志士たちが集まったように、頼朝とソリがあわない人材や、頼朝の粛清を逃れた人材が、じりじりと奥州に集まってくることになります。このような独立割拠した勢力でいつづければ、鎌倉で何か政治的混乱があった時に、ひと暴れできるくらいに大きくなれたかもしれません。
こちらもCHECK
-
源義経はどんな人?実は名門出でプライドが高い?元祖異世界転生英雄の生涯
続きを見る
まとめ:このプランだと北条氏時代になってからが面白い?
そうなると、面白いのは、鎌倉の将軍家が途絶え、北条家の時代が始まる時。
こちらもCHECK
-
北条義時は通称北条小四郎なのに大河ドラマで江間義時と名乗っていたのはなぜ?
続きを見る
日本史ライターYASHIROの独り言
そのとき、老いたりとはいえまだ元気な義経か、あるいはその意志を継いだ源姓の武将が、奥州藤原氏の資金力をバックに動ける状態になっていたはずです。
史実では、北条家が源将軍家から権力を奪取した際、特に大きな反対勢力はもう残っていませんでしたが、このイフ世界では、「義経派」が東北に頑強に結集していることになります。
このような勢力が「鎌倉の北条家に異議あり!」となだれこんできたら、日本史はあまりにも大きく変わってきますし、源義経にも、もう一度、華やかな活躍ができるチャンスが巡ってきたことになると思いますが、いかがでしょうか?
こちらもCHECK
-
どうして北条義時は頼朝に信じられたの?知られざる鎌倉殿の11人の存在【鎌倉殿の13人】
続きを見る