御内人とは何者?鎌倉幕府を下克上した執権北条氏の家来を解説【鎌倉殿の13人】

26/11/2022


 

コメントできるようになりました 織田信長

 

2代目執権に就任する北条義時

 

鎌倉殿と主従(しゅじゅう)関係を結び、領地を保障された武士の事を御家人(ごけにん)と言います。そのような御家人の頂点に立ったのが執権(しっけん)の北条氏でした。では、執権北条氏に仕える家来の事は何と呼ぶかご存知ですか?

 

オンライン授業の講師を務めるkawauso編集長

 

今回は北条氏の家来から出発し、鎌倉幕府を牛耳るまでに成長した御内人(みうちびと)について解説します。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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御家人の家来だった御内人

日本の戦国時代の弓兵(兵士)

 

御内人とは元々御内(みうち)と呼ばれ、簡単に言うと御家人や貴族に仕えている従者(じゅうしゃ)の事です。征夷大将軍である鎌倉殿と主従関係を結んだ武士を御家人と言いますが、御内はそんな御家人の家来で序列的には将軍の家来の家来でした。

 

源頼家 鎌倉殿の13人

 

御内人は将軍と主従関係を結んでいないので、将軍の命令に服する義務はありませんが、当然身分は低く官位も与えられず御家人にも無視される存在です。

 

中村主水のような殺し方を得意とした善児

 

分かりやすく言うと、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で暗殺者として活躍した善児(ぜんじ)は最初、伊藤祐親の従者(じゅうしゃ)で、その後北条義時の従者になりますが、あのような存在を御内と言っていました。また暗殺を担当してはいませんが、北条泰時の側近で幼馴染の鶴丸(つるまる)平盛綱(たいらのもりつな))も御内です。

 

善児とは?

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北条得宗家の確立で権力を持ち始める御内人

第3代執権に就任した42歳の北条泰時.jpg

 

御内は長い間、御家人の従者に過ぎませんでしたが、北条泰時が3代執権に就任すると状況が変化します。

 

泰時が執権になった頃、北条氏は時政の子ども達や義時の子ども達がそれぞれ分家して、独立採算で複数の勢力を築いていました。これでは泰時の死後、誰が次の執権になるかで揉めるのは確実なので北条氏内部で地位の序列をつける必要が生じたのです。

 

日本史上屈指の名宰相・北条泰時

 

 

そこで泰時は自分の系統である得宗家にだけ執事組織である家令(かれい)を置く事を宣言し、得宗家の所領の管理を御内に任せるようになります。同時に泰時は御内に命じて北条一門に、自分の命令(奉書(ほうしょ))を伝達するようになりました。

 

例え格上でも身内の泰時から直接命令されるとムカッとしますが、代理人の御内が伝える分には、一門も怒るに怒れないからです。

 

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得宗家の威光を背景に強大化する御内人

鶴岡八幡宮 建物 モブ

 

その結果、御内は必然的に得宗家の威光を背負うようになります。また御内の機嫌を損ねると、得宗家にどんな悪口を吹きこむかも知れないので北条一門は、次第に御内を恐れるようになり、固有名詞として御内人(みうちびと)と呼ばれるようになりました。

 

 

 

やがて御内人は北条一門が守護を務める国にも守護代として派遣されるようになり、一門の監視役の役割を担うようになります。この一連の経緯を経て、御家人の家来に過ぎなかった御内人は官位を取得して御家人の地位を得る事になり、勢力を拡大させます。

 

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元寇

 

 

注意!御内人全ての身分が低いわけではない

相模国松田に住み着く源行家

 

 

ただ、北条得宗家の御内人が全て出自が不明な卑しい身分であったわけではありません。御内人の中にも最初から御家人の地位を獲得している人々もいて、彼らは御内人と御家人の地位を兼任していました。

 

つまり、鎌倉殿にも仕え、北条得宗家にも仕える両属の御内人もいたのです。一方で、出自が怪しい武士階級以下の御内人もいたので、別の御家人たちは自分達に偉そうに命令を下す御内人を「成り上がりの卑しい連中」と嫌悪して溜飲(りゅういん)を下げていたのです。

 

 

北条時宗 (坊主)

 

蒙古襲来が起きると、時の執権、北条時宗(ほうじょうときむね)挙国一致(きょこくいっち)を掲げて、それまで命令を出していなかった鎌倉幕府と主従関係に無い非御家人(ひごけにん)へも命令を出すようになります。

 

蒙古襲来絵詞(元寇)

 

特に二度目の弘安の役において、時宗は作戦指令を自分の名前で出すと共に、自分の代理として御内人を戦場に派遣、御家人主体の軍を指揮させました。

 

得宗家の勢力が強化されると、自動的にその命令を伝達する御内人の地位も強化。遂には将軍の従者である「御家人」に対し御内人は「外様(とざま)」と称されるようになります。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

 

平盛綱の孫が下克上を達成

恩賞を北条時宗に必死にせがむ竹崎季長

 

時宗は御内人として平頼綱(たいらのよりつな)を重用し、息子である貞時の乳父(めのと)にもしていました。この頼綱は盛綱の孫であるようです。しかし貞時が成長する前に時宗は病死し、頼綱は幼い貞時の後見として勢力を拡大していき内管領(ないかんれい)と呼ばれるようになりました。

 

内管領とは鎌倉幕府の正式な役職ではありませんが

 

①得宗家の家令

幕府侍所所司(ばくふさむらいどころ・しょじ)(次官)

③幕府寄合衆(よりあいしゅう)のメンバー

 

という鎌倉幕府の有力ポストを兼任した存在で幕政に絶大な影響力を及ぼします。これに対し、時宗(ときむね)外戚(がいせき)安達泰盛(あだちやすもり)が危機意識を強めると、頼綱は先手を打ち霜月(しもつき)騒動で泰盛を滅ぼして幕府の頂点に立ち、やがて恐怖政治を敷く独裁体制へ移行します。

 

 

討死する坂東武士(モブ)

 

 

しかし執権貞時が成長すると頼綱の独断専行に恐怖を感じるようになり、正応6年(1293年)鎌倉大地震の混乱を利用して兵を出し頼綱を滅ぼしました。(平禅門(たいらのぜんもん)の乱)

 

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源頼朝

 

 

 

その後も影響力を行使した御内人

京都御所

 

平頼綱を滅ぼした貞時ですが、北条一門に指令を出す上で御内人の存在は不可欠で、その為、平頼綱が滅んだ後も、御内人には内管領にまで昇進し幕府権力を掌握する存在が度々出現します。

 

滅亡した頼綱の一門からも、鎌倉時代の末期に長崎円喜(ながさきえんき)が登場して内管領になり、嫡子の高資(たかすけ)とともに北条得宗家以上の権勢をふるった事が太平記に出てきます。

 

戦費負担で貧乏になる鎌倉武士

 

また、御家人が土地の支配にあぐらをかいて、分割相続や蒙古襲来の戦費負担の重さで次々と没落して貧困化していく中、御内人は得宗家の領内で金銭の貸付や土地の売買をしたり、土地を巡る訴訟で便宜を図るなどして賄賂を得て私腹を肥やし、鎌倉時代の新しい富裕層に成長していきました。

 

つまり執権が特に御内人を重用せずとも、独力で勢力を維持できるレベルにまで御内人は成長していたのです。

 

しかし、本来は征夷大将軍と御家人のモノであるべきだった鎌倉幕府の政治が、陪臣の北条得宗家と、その雇われ人に過ぎない御内人により運営される事は幕政の腐敗以外の何物でもないと没落した御家人は不満を強めていきます。

 

馬にのり凱旋する将軍モブ(兵士)武士

 

 

これが、やがて倒幕運動へ結びつき、建武の新政から南北朝の動乱へと繋がるのです。

 

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鎌倉殿の13人

 

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

北条得宗家の影として得宗家の強大化に併せて大きくなっていった御内人は、鎌倉幕府滅亡時に、ほとんどが北条一族と運命を共にします。

 

しかし、工藤氏や安倍姓安東氏、諏訪氏(すわし)のような一部の御内人は生き残り、室町時代に仕えたり、戦国大名化するなど時代の流れを読んで生き残り、江戸時代には大名として存続し、武士の世が終わる明治維新まで生存しました。

 

一見、北条得宗家に寄生しているかに見える御内人ですが地位にあぐらをかかず、常に生き残りを模索し変化に対応し続けた強かな人々だった事が窺えますね。

 

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