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武田信義とはどんな人?富士川で平家を破ったもう1人の源氏棟梁の生涯【鎌倉殿の13人】

11/02/2022


鎌倉殿13人 北条義時

 

2022年1月9日から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿(かまくらどの)の13人」

 

武田信義 鎌倉殿の13人

 

その中で甲斐源氏(かいげんじ)を率いる棟梁(とうりょう)として頼朝(よりとも)に勝るとも劣らない存在感を示したのが武田信義(たけだのぶよし)でした。信光は源氏の中の源氏、河内源氏(かわちげんじ)の初代、源頼信(みなもとのよりのぶ)の孫、源義光(みなもとのよしみつ)の血を引く人物であり、治承寿永(じしょうじゅえい)の乱の初期は、頼朝とどちらが河内源氏の棟梁か争った間柄でした。

 

今回は平家が恐れたもう1人の源氏棟梁、武田信義を解説します。

 

源氏の中の源氏、河内源氏の事が分かります!

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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甲斐源氏 源清光の子として誕生。

戦国時代の武家屋敷b

 

武田信義は大治(だいじ)3年(1128年)甲斐源氏の祖、新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)の孫、源清光(みなもとのきよみつ)の次男として誕生します。幼名は龍光丸(りゅうこうまる)でした。保延(ほうえん)6年(1140年)13歳で武田八幡宮(たけだはちまんぐう)で元服。武田太郎信義(たけだたろうのぶよし)と名を改め、以後武田八幡宮は甲斐源氏の氏神(うじがみ)となります。

 

真田丸 武田信玄

 

源氏の信義が武田を名乗ったのは、新羅三郎義光の子、源義清(みなもとのよしきよ)常陸国武田郷(ひたちのくにたけだごう)から甲斐に流され武田氏を名乗ったのが始まりであるそうです。余談ですが、戦国の名将、武田信玄は信義の遠い子孫にあたります。

 

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武田信玄

 

 

以仁王の令旨を受け甲斐で挙兵

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

治承4年(1180年)の4月頃、信義は平家追討を呼びかける以仁王(もちひとおう)令旨(りょうじ)を手に入れ8月下旬には平家打倒の兵を挙げました。同じ頃に伊豆の源頼朝も挙兵していて、甲斐源氏と伊豆の頼朝はバラバラに挙兵したと考えられています。

 

坂東武士A(モブ)

 

しかし、頼朝が山木兼隆(やまきかねたか)を破って伊豆国衙(いずこくが)を落とした後に平家方の家人(けにん)大庭景親(おおばかげちか)の連合軍に石橋山で8月23日敗れたのと違い甲斐源氏は連戦連勝。同年8月25日には、信義の同族、安田義定(やすだよしさだ)波志田山合戦(はしたやまかっせん)で大庭景親の弟、俣野景久(またのかげひさ)を破りました。

 

討死する坂東武士(モブ)

 

この事から石橋山で敗れた頼朝の残党の中には甲斐に逃げ込んで甲斐源氏について戦った武将がいたそうです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

富士川合戦で平維盛を撃破

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

甲斐源氏はそのまま進撃し、信濃国伊那郡に出兵し、平家方の菅冠者(すがのかじゃ)を討ち取って諏訪社(すわしゃ)との提携を果たし、その後は鉢田(はちた)の戦いで駿河目代(するがもくだい)橘遠茂(たちばなとおしげ)長田入道(ながたにゅうどう)を討ち取り、平維盛(たいらのこれもり)が率いる平家追討軍が到着する前に駿河を占領します。

 

最強の寄せ集め集団を率いる源頼朝

 

この頃、頼朝も安房(あわ)上総(かずさ)武蔵(むさし)の源氏方の武士団を吸収して勢力を盛り返し、平家の追討軍を追い返そうと黄瀬川(きせがわ)に着陣。武田信義は40000騎を率いて富士川東岸に着陣し平維盛の征討軍4000騎と対陣します。

 

しかし、10倍の信義の軍勢相手に、維盛の方からは味方の兵士が逃げ続け、ばかりか公然と信義につこうとする味方まで出現したので、ろくに戦わない間に潰走しました。この戦いは武田信義と源頼朝の連携と言われていますが、実際には武田信義の軍勢だけで勝利したようなものでした。

 

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頼朝と並び平家の殺すリストに登録

 

富士川合戦で平家の追討軍が惨敗すると、各地で反平家勢力が挙兵しますが、その中の近江源氏と信義は連絡を取っていたようです。平家も頼朝と並んで信義を討伐すべき重要な敵として記録していました。このように信義は治承寿永の乱の初期、頼朝と並んで源氏勢力の棟梁とみなされていた事が分かります。

 

木曾義仲(源義仲) 武士 鎌倉

 

やがて、北陸道では源義仲(みなもとのよしなか)が台頭、東国では、頼朝、信義、義仲勢力の鼎立状態がしばらく続きました。

 

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WEB版 はじめての三国志

 

甲斐源氏が分裂し頼朝に協力

京都御所

 

しかし、その後、甲斐源氏勢力では分裂が生じ、弟の加賀美遠光(かがみとおみつ)とその次男小笠原長清(おがさわらながきよ)、そして信義の子、石和信光(いしわのぶみつ)が頼朝に接近。一族の安田義定は倶利伽羅峠(くりからとうげ)で平家を撃ち破って都に進撃する義仲に追従し朝廷から遠江守(とおとおみのかみ)を拝領するなど甲斐源氏勢力は分散しました。

 

「組織作りの天才」と尊敬を集めた、源頼朝

 

そして義仲と頼朝が敵対すると信義は頼朝と協調する路線を選択、配下の扱いになり、源範頼(みなもとの・のりより)源義経(みなもとのよしつね)と義仲追討に出陣。一ノ谷の戦いや山陽道遠征、壇ノ浦の戦いに参加します。

 

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ながら日本史

 

 

頼朝に疎まれ息子を殺害される

朝廷(天皇)

 

鎌倉幕府の支配下に入ったものの、元々独立勢力だった信義は頼朝に脅威とみなされ、養和元年(1181年)後白河法皇(ご・しらかわほうおう)が信義に頼朝追討の命令を下したと風聞が流れると鎌倉に呼び出され「子々孫々(ししそんそん)まで弓を引くことはありません」と起請文を書かされています。

 

その後も、駿河(するが)を支配し朝廷からも武蔵守に叙任された息子の一条忠頼(いちじょうただより)が屋島の戦いからの帰還後、頼朝の命令を受けた天野景遠(あまのかげとお)に宴席で暗殺され駿河を頼朝に奪取される事件が起きました。すでに信義の勢力は衰え頼朝に反旗を翻す事もできず泣き寝入りするしかありませんでした。

 

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大和朝廷

 

 

頼朝の弾圧と優遇策で御家人の1人に転落

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一方で、頼朝に早くから従った弟の加賀美戸遠光が露骨に優遇されるなど、甲斐源氏には、親和策と弾圧が交互に繰り返されていました。こうして元々頼朝と対等だった甲斐源氏は支配下の御家人の地位に転落します。その後、信義は文治2年(1186年)59歳で病没したと吾妻鏡にありますが、実際は1194年頃までは生きていた可能性もあるようです。

 

しかし、一度は源氏の頂点を目指した信義からすれば、その晩年は愉快なものではなかったかも知れません。

 

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、八嶋智人(やしまのりと)さんが演じる武田信義。

 

序盤では圧倒的に優位な状態から、頼朝から源氏の主導権を奪い取ろうと色々と画策するキャラクターになりそうです。

 

しかし、後半は甲斐源氏の有力武将や身内の離反を招き、没落していく哀しい様子が描かれるのでしょうか?息子を殺した過去のライバルに頭を下げ御家人として付き従うとは、信義の屈辱はどれほどのものだったでしょうね。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

 

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カワウソ編集長

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