2022年1月9日から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
その中で甲斐源氏を率いる棟梁として頼朝に勝るとも劣らない存在感を示したのが武田信義でした。信光は源氏の中の源氏、河内源氏の初代、源頼信の孫、源義光の血を引く人物であり、治承寿永の乱の初期は、頼朝とどちらが河内源氏の棟梁か争った間柄でした。
今回は平家が恐れたもう1人の源氏棟梁、武田信義を解説します。
源氏の中の源氏、河内源氏の事が分かります!
この記事の目次
甲斐源氏 源清光の子として誕生。
武田信義は大治3年(1128年)甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の孫、源清光の次男として誕生します。幼名は龍光丸でした。保延6年(1140年)13歳で武田八幡宮で元服。武田太郎信義と名を改め、以後武田八幡宮は甲斐源氏の氏神となります。
源氏の信義が武田を名乗ったのは、新羅三郎義光の子、源義清が常陸国武田郷から甲斐に流され武田氏を名乗ったのが始まりであるそうです。余談ですが、戦国の名将、武田信玄は信義の遠い子孫にあたります。
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以仁王の令旨を受け甲斐で挙兵
治承4年(1180年)の4月頃、信義は平家追討を呼びかける以仁王の令旨を手に入れ8月下旬には平家打倒の兵を挙げました。同じ頃に伊豆の源頼朝も挙兵していて、甲斐源氏と伊豆の頼朝はバラバラに挙兵したと考えられています。
しかし、頼朝が山木兼隆を破って伊豆国衙を落とした後に平家方の家人、大庭景親の連合軍に石橋山で8月23日敗れたのと違い甲斐源氏は連戦連勝。同年8月25日には、信義の同族、安田義定が波志田山合戦で大庭景親の弟、俣野景久を破りました。
この事から石橋山で敗れた頼朝の残党の中には甲斐に逃げ込んで甲斐源氏について戦った武将がいたそうです。
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富士川合戦で平維盛を撃破
甲斐源氏はそのまま進撃し、信濃国伊那郡に出兵し、平家方の菅冠者を討ち取って諏訪社との提携を果たし、その後は鉢田の戦いで駿河目代、橘遠茂や長田入道を討ち取り、平維盛が率いる平家追討軍が到着する前に駿河を占領します。
この頃、頼朝も安房、上総、武蔵の源氏方の武士団を吸収して勢力を盛り返し、平家の追討軍を追い返そうと黄瀬川に着陣。武田信義は40000騎を率いて富士川東岸に着陣し平維盛の征討軍4000騎と対陣します。
しかし、10倍の信義の軍勢相手に、維盛の方からは味方の兵士が逃げ続け、ばかりか公然と信義につこうとする味方まで出現したので、ろくに戦わない間に潰走しました。この戦いは武田信義と源頼朝の連携と言われていますが、実際には武田信義の軍勢だけで勝利したようなものでした。
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頼朝と並び平家の殺すリストに登録
富士川合戦で平家の追討軍が惨敗すると、各地で反平家勢力が挙兵しますが、その中の近江源氏と信義は連絡を取っていたようです。平家も頼朝と並んで信義を討伐すべき重要な敵として記録していました。このように信義は治承寿永の乱の初期、頼朝と並んで源氏勢力の棟梁とみなされていた事が分かります。
やがて、北陸道では源義仲が台頭、東国では、頼朝、信義、義仲勢力の鼎立状態がしばらく続きました。
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甲斐源氏が分裂し頼朝に協力
しかし、その後、甲斐源氏勢力では分裂が生じ、弟の加賀美遠光とその次男小笠原長清、そして信義の子、石和信光が頼朝に接近。一族の安田義定は倶利伽羅峠で平家を撃ち破って都に進撃する義仲に追従し朝廷から遠江守を拝領するなど甲斐源氏勢力は分散しました。
そして義仲と頼朝が敵対すると信義は頼朝と協調する路線を選択、配下の扱いになり、源範頼、源義経と義仲追討に出陣。一ノ谷の戦いや山陽道遠征、壇ノ浦の戦いに参加します。
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頼朝に疎まれ息子を殺害される
鎌倉幕府の支配下に入ったものの、元々独立勢力だった信義は頼朝に脅威とみなされ、養和元年(1181年)後白河法皇が信義に頼朝追討の命令を下したと風聞が流れると鎌倉に呼び出され「子々孫々まで弓を引くことはありません」と起請文を書かされています。
その後も、駿河を支配し朝廷からも武蔵守に叙任された息子の一条忠頼が屋島の戦いからの帰還後、頼朝の命令を受けた天野景遠に宴席で暗殺され駿河を頼朝に奪取される事件が起きました。すでに信義の勢力は衰え頼朝に反旗を翻す事もできず泣き寝入りするしかありませんでした。
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頼朝の弾圧と優遇策で御家人の1人に転落
一方で、頼朝に早くから従った弟の加賀美戸遠光が露骨に優遇されるなど、甲斐源氏には、親和策と弾圧が交互に繰り返されていました。こうして元々頼朝と対等だった甲斐源氏は支配下の御家人の地位に転落します。その後、信義は文治2年(1186年)59歳で病没したと吾妻鏡にありますが、実際は1194年頃までは生きていた可能性もあるようです。
しかし、一度は源氏の頂点を目指した信義からすれば、その晩年は愉快なものではなかったかも知れません。
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日本史ライターkawausoの独り言
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、八嶋智人さんが演じる武田信義。
序盤では圧倒的に優位な状態から、頼朝から源氏の主導権を奪い取ろうと色々と画策するキャラクターになりそうです。
しかし、後半は甲斐源氏の有力武将や身内の離反を招き、没落していく哀しい様子が描かれるのでしょうか?息子を殺した過去のライバルに頭を下げ御家人として付き従うとは、信義の屈辱はどれほどのものだったでしょうね。
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