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源頼家の病は蝙蝠に咬まれたせい?語られない頼家の重病を大胆検証【鎌倉殿の13人】


源頼家 鎌倉殿の13人

 

 

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人「全成の確率」では、いろいろ心労が重なった二代将軍頼家が急病に倒れました。

 

ここから比企能員(ひきよしかず)の乱や畠山重忠(はたけやましげただ)の乱など御家人と北条家を真っ二つにする騒動が繰り返されますが、不思議に騒動の切っ掛けになった頼家の急病について言及している記事がありません。そこで今回は頼家急病の原因について考察します。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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源頼家の病気は天然痘ではない!

疫病が蔓延している村と民人

 

鎌倉時代といえば、天然痘(てんねんとう)が猛威を振るっていた時代なので、カワウソも最初は天然痘ではなかろうかと考えていました。しかし頼家は子供の頃は病気がちで10歳の時に天然痘に罹患し回復した事が分っています。

 

天然痘は一度感染すれば、抗体が造られて以後は感染しにくくなるので、頼家の重病は天然痘ではないと言う事になります。だとすると一体、何の病気でしょうか?

 

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病気に倒れる前、洞窟探検ををしていた

大庭景親に敗北し洞窟に隠れる源頼朝

 

頼家が急病に倒れるのは建仁(けんにん)3年(1203年)7月20日と吾妻鏡(あづまかがみ)にあります。

 

実は、その50日前、頼家は狩りをするために伊豆、そして富士の樹海に足を踏み入れていました。頼家は狩の供として和田義盛の甥である和田平太胤長(わだ・へいた・たねなが)や鎌倉時代のガンダムとしてお馴染み、仁田忠常(にったただつね)を引き連れていましたが、ただ狩猟だけしていたのではなく、伊豆でも樹海でも大きな洞窟を発見。

 

ドンドン出世していく和田義盛

 

頼家探検隊として、伊豆では和田平太胤長、富士の樹海では仁田忠常を探索に向かわせています。

 

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源頼朝

 

 

酷い目にあっていた仁田殿

仁田忠常

 

特に富士の樹海にある洞窟探検を命じられた仁田忠常のケースはヒドイものでした。

 

6月4日、朝10時、忠常は5人の郎党を引き連れて洞窟に入りますが、洞窟は次第に狭くなり、ついには(きびす)を返す事さえ難しくなったので、やむを得ず中に進んでいきます。おまけに足元は水が流れていて、乾いている場所がありません。

 

とぼとぼと洞窟を進むと広い空間に出ましたが、真っ暗で不安でたまらず、それぞれ松明をつけると周辺は蝙蝠(こうもり)だらけで何千羽も飛び交っていました。

 

さらに進むと、大河が流れていて、どう渡ればいいのか見当もつきません。その時、突然光が当たったので何ごとかと振り向くと怪奇現象が起こり郎党4人がたちまちの間に死んでしまいました。

 

討死する坂東武士(モブ)

 

しかし、忠常は日頃から「やれば出来る!」と信じていたので霊の導きを得て、頼家から頂いた剣を河に投げ入れ無事に帰ることができたようです。

 

やればできる御家人仁田忠常

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源義経

 

 

蝙蝠に咬まれたのが発病の原因か?

病気になった兵士

 

仁田忠常の証言では、洞窟内には数千羽の蝙蝠がいたようです。もしかして、頼家はこれらの蝙蝠に咬まれたか、尿をかけられたりしたのかも知れません。頼家は狩猟の最中ですから、指に小さな切り傷などは当たり前に負っていたでしょう。

 

そこから蝙蝠が持つレプトスピラ菌に感染し、レプトスピラ症を発症したのではないでしょうか?

 

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レプトスピラ症とは?

蛇神ナーガ(神話)

 

レプトスピラ症とは、潜伏期間5~14日(まれに3週間)の感染症です。コウモリだけではなく、ヘビ、ダニ、蛙や魚など120種をこえる多種多様な動物から分離され、人は終末宿主です。症状は幅広く、風邪症状だけで全快する軽症型から、黄疸、出血、腎障害を伴う重症型のワイル病まで多彩な症状を示します。

 

重傷の場合には、発熱、悪寒、頭痛、筋肉痛、腹痛、結膜充血などが生じ、4日から6日が経過すると目の周囲に黄疸が出現し皮膚から出血する事が多くなります。軽症の時にはすぐに治りますが、ワイル病になると適切な治療がなされない場合、死亡率は20~30%にもなる危険な病気です。

 

頼家は7月20日に発病してから一気に重篤になり、9月5日に回復に至っているので、45日間も闘病していました。これは重傷化してワイル病になったと考えられます。

 

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レプトスピラ症に合致しない部分も

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しかし、頼家の症状がレプトスピラ症に合致しない部分もあります。頼家が駿河から鎌倉に戻ったのは6月10日であるのに対し、頼家の発病は7月20日です。都合40日も経過していて、潜伏期間がおおむね5~14日のレプトスピラ症に合致しません。

 

ただ、レプトスピラ菌はコウモリだけではなく、イヌやヘビ、ドブネズミ、アカネズミなど齧歯類(げっしるい)も保有していて、日本では古くから田圃で感染する秋疫(あきやみ)や用水病、七日熱として知られ、若く活動的な頼家が鎌倉のどこかでレプトスピラ菌を保有する生き物に接触し発症した可能性もあります。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

頼家といえば悲劇的で悲惨な最期が有名ですが、それ以前に起きた誰もがもう助からないとみて、家督相続まではじめた重病には、あまり関心があつまりません。

 

頼朝の場合は急病がそのまま死に直結したので、死因について沢山の研究がありますが、頼家は奇跡的に回復し、その後暗殺された経緯があるので病気が顧みられないのでしょう。

 

しかし、頼家が闘病していた45日間は将軍権力が比企氏と北条氏に争われ、やがて比企能員の乱で決定的に北条氏に移る重要な切っ掛けであり、頼家の重病はまさに歴史を変えたと言えるのです。

 

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カワウソ編集長

カワウソ編集長

日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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