NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人「全成の確率」では、いろいろ心労が重なった二代将軍頼家が急病に倒れました。
ここから比企能員の乱や畠山重忠の乱など御家人と北条家を真っ二つにする騒動が繰り返されますが、不思議に騒動の切っ掛けになった頼家の急病について言及している記事がありません。そこで今回は頼家急病の原因について考察します。
この記事の目次
源頼家の病気は天然痘ではない!
鎌倉時代といえば、天然痘が猛威を振るっていた時代なので、カワウソも最初は天然痘ではなかろうかと考えていました。しかし頼家は子供の頃は病気がちで10歳の時に天然痘に罹患し回復した事が分っています。
天然痘は一度感染すれば、抗体が造られて以後は感染しにくくなるので、頼家の重病は天然痘ではないと言う事になります。だとすると一体、何の病気でしょうか?
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病気に倒れる前、洞窟探検ををしていた
頼家が急病に倒れるのは建仁3年(1203年)7月20日と吾妻鏡にあります。
実は、その50日前、頼家は狩りをするために伊豆、そして富士の樹海に足を踏み入れていました。頼家は狩の供として和田義盛の甥である和田平太胤長や鎌倉時代のガンダムとしてお馴染み、仁田忠常を引き連れていましたが、ただ狩猟だけしていたのではなく、伊豆でも樹海でも大きな洞窟を発見。
頼家探検隊として、伊豆では和田平太胤長、富士の樹海では仁田忠常を探索に向かわせています。
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酷い目にあっていた仁田殿
特に富士の樹海にある洞窟探検を命じられた仁田忠常のケースはヒドイものでした。
6月4日、朝10時、忠常は5人の郎党を引き連れて洞窟に入りますが、洞窟は次第に狭くなり、ついには踵を返す事さえ難しくなったので、やむを得ず中に進んでいきます。おまけに足元は水が流れていて、乾いている場所がありません。
とぼとぼと洞窟を進むと広い空間に出ましたが、真っ暗で不安でたまらず、それぞれ松明をつけると周辺は蝙蝠だらけで何千羽も飛び交っていました。
さらに進むと、大河が流れていて、どう渡ればいいのか見当もつきません。その時、突然光が当たったので何ごとかと振り向くと怪奇現象が起こり郎党4人がたちまちの間に死んでしまいました。
しかし、忠常は日頃から「やれば出来る!」と信じていたので霊の導きを得て、頼家から頂いた剣を河に投げ入れ無事に帰ることができたようです。
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蝙蝠に咬まれたのが発病の原因か?
仁田忠常の証言では、洞窟内には数千羽の蝙蝠がいたようです。もしかして、頼家はこれらの蝙蝠に咬まれたか、尿をかけられたりしたのかも知れません。頼家は狩猟の最中ですから、指に小さな切り傷などは当たり前に負っていたでしょう。
そこから蝙蝠が持つレプトスピラ菌に感染し、レプトスピラ症を発症したのではないでしょうか?
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レプトスピラ症とは?
レプトスピラ症とは、潜伏期間5~14日(まれに3週間)の感染症です。コウモリだけではなく、ヘビ、ダニ、蛙や魚など120種をこえる多種多様な動物から分離され、人は終末宿主です。症状は幅広く、風邪症状だけで全快する軽症型から、黄疸、出血、腎障害を伴う重症型のワイル病まで多彩な症状を示します。
重傷の場合には、発熱、悪寒、頭痛、筋肉痛、腹痛、結膜充血などが生じ、4日から6日が経過すると目の周囲に黄疸が出現し皮膚から出血する事が多くなります。軽症の時にはすぐに治りますが、ワイル病になると適切な治療がなされない場合、死亡率は20~30%にもなる危険な病気です。
頼家は7月20日に発病してから一気に重篤になり、9月5日に回復に至っているので、45日間も闘病していました。これは重傷化してワイル病になったと考えられます。
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レプトスピラ症に合致しない部分も
しかし、頼家の症状がレプトスピラ症に合致しない部分もあります。頼家が駿河から鎌倉に戻ったのは6月10日であるのに対し、頼家の発病は7月20日です。都合40日も経過していて、潜伏期間がおおむね5~14日のレプトスピラ症に合致しません。
ただ、レプトスピラ菌はコウモリだけではなく、イヌやヘビ、ドブネズミ、アカネズミなど齧歯類も保有していて、日本では古くから田圃で感染する秋疫や用水病、七日熱として知られ、若く活動的な頼家が鎌倉のどこかでレプトスピラ菌を保有する生き物に接触し発症した可能性もあります。
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日本史ライターkawausoの独り言
頼家といえば悲劇的で悲惨な最期が有名ですが、それ以前に起きた誰もがもう助からないとみて、家督相続まではじめた重病には、あまり関心があつまりません。
頼朝の場合は急病がそのまま死に直結したので、死因について沢山の研究がありますが、頼家は奇跡的に回復し、その後暗殺された経緯があるので病気が顧みられないのでしょう。
しかし、頼家が闘病していた45日間は将軍権力が比企氏と北条氏に争われ、やがて比企能員の乱で決定的に北条氏に移る重要な切っ掛けであり、頼家の重病はまさに歴史を変えたと言えるのです。
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