NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人では、いよいよ頼朝の死が間近に迫っています。頼朝の死因については鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡は具体的な事は何も記さず、頼朝死後13年も経過してから落馬と記してそのままです。
また、吾妻鏡の記述を読むと、当時存命だった大江広元や北条義時が頼朝には天罰があたったと考えていた様子がうかがえるのです。
この記事の目次
源頼朝の死去は1199年1月13日で共通
源頼朝の死は、当時の日本における関心事だったので、北条九代記や天台宗の僧侶慈円の愚管抄、公卿藤原定家の日月記に記載があります。記述はすべて頼朝の出家を建久10年(1199年)1月11日とし、死没を同13日としています。
現在と違い、情報伝達速度も精度も低い当時、頼朝の死没日が全て統一されているのは、重要な事だから間違いがあってはいけないと、何度も確認したせいでしょう。
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頼朝の病状は?
鎌倉幕府の歴史書である吾妻鏡では、頼朝の死から13年も経過した1212年の2月28日に頼朝は落馬してほどなく死んだと病状に触れず簡潔に記してあります。
しかし、鎌倉から遠く離れた京都では頼朝の病状についても記録しています。
愚管抄によると、
関東将軍が病と不快感に悩まされていると噂で聞いていたが、やがて1月11日に出家し13日に死去したと15日か16日、人づてに聞こえてきた(以下略)
日月記には、1999年1月18日の日付で
噂によると前の右近衛大将、病を得て臨終が近いとて11日出家したとの事。飛脚が知らせてきた(以下略)
次に1月20日の日付では、
前の将軍去る11日出家し13日に死去す。急な病と思われる
と記述し、頼朝の死が間違いない事を確認しています。
これを見ると京都では頼朝が急に病を得て、急いで出家し慌ただしく2日後に死去したと情報を得ていた事が分かります。当時は出家をしないと極楽往生できないとする考えがあり、死期が近づくと大慌てで出家するケースがよくありました。
頼朝はいつから悪かったのか?
慈円や藤原定家の日記では、頼朝が急に病を得て、急いで出家して間もなく死んだ事しかわかりません。
では、頼朝はいつから病に臥せっていたのでしょうか?
鎌倉時代中期に書かれた「承久記」には、頼朝が年末から半月ほど病に臥せっていたとする記述があります。
頼朝は半月も寝込み心身ともに衰弱し、もはや命は長くないと考えた。そして、北条政子を病床に呼ぶと「お前とは死ぬまで一緒と誓って夫婦になったが一足先に臨終となりそうだ」と言い、これまで尽くしてくれた事に礼を述べた。
次に頼朝は、嫡子である頼家を呼び出し「わしの命運は尽きたようだ。死後は千幡(実朝)を愛しみ兄弟仲良くせよまた八ヶ国の大名や高家を頼りにしてはならない。ただ畠山重忠を頼みに日本を守ってくれ」と遺言した。
このように書かれていて、頼朝は年末から半月、病に臥せっていた事が分かります。半月前に頼朝は落馬し、その後体の不調を起こしたようですが、半月前には一体何が起きたのでしょうか?
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頼朝の死、きっかけは橋の落成式
頼朝が落馬した時期は、建久9年(1199年)の年末である事が吾妻鏡から分かります。この時期は、頼朝が相模橋の落成式典に参加した直後でした。
鎌倉幕府の御家人稲毛重成は、北条時政の娘を妻にしていました。しかし、建久6年(1195年)6月、重成が京都に出張中妻は亡くなり、重成は供養の為に3年後に相模川に橋を架けました。
頼朝も時政の娘政子を正室とした事から稲毛重成は姻戚にあたり橋落成の記念として、相模橋を馬で渡った後に落馬し、それからまもなく体調を崩したようです。
ただ、承久記という書物では、頼朝が水神に見入られ魂を持ち去られたとして祟りの可能性を匂わせていて、また、橋を架けた稲毛重成にしても、元久2年(1205年)畠山重忠に謀反の濡れ衣を着せたとして大河戸行元に誅殺されました。
以来、相模橋は縁起が悪い橋だと考えられたようです。
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源頼朝の死因は歯周病を原因とする脳卒中
では、頼朝を落馬させ、さらには死に向かわせた病気はなんだったのか?
これは歯周病を原因として脳卒中を起こしたのではないかという説があります。
それというのも吾妻鏡には頼朝が晩年歯痛に苦しめられた事が、これでもかとばかりに大量に書かれているからです。頼朝は長期の行軍にも耐えられる健康体で歯痛以外の病気の記述は出てこないので、かなり異例です。
建久5年
(1194年)8月22日 |
将軍頼朝、いささか御不例、御歯の労りと云々。
雑用人が上洛し良藥がないか尋ねてみると云々 |
建久5年
(1194年)9月26日 |
歯の御労りの事、療法を京都の医師に尋ねるため
早々と飛脚を立てられるという事云々 |
建久5年
(1194年)10月17日 |
歯の御療治の事、名医丹波頼基が処方箋を書き
効き目のある良薬を献上と云々 |
建久6年
(1195年)8月19日 |
将軍頼朝、御歯の御労り再発すと云々 |
建久6年
(1195年)8月26日 |
歯の御労りの事、いささか良くなる。
舟に乗り海浦を歴て、三崎へ渡御す。 |
このように、建久5年から翌年にかけて頼朝が歯痛に苦しんだ記述は5カ所もあります。
近年の研究で、歯周病を放置すると歯周病菌が動脈硬化や脳卒中のリスクを高める事が分っていますが、鎌倉時代には歯科技術も発達しておらず、治療と言っても薬草を歯に詰めるか、歯を引き抜く荒療治しかなかったので頼朝も薬で痛みを紛らわすしかなかったのでしょう。
その間に歯周病菌により動脈硬化が進行し、乗馬中に一過性の脳虚血発作を起こし手足の痺れを起こして落馬したと考えられます。
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一過性脳虚血発作の後、脳梗塞を起こした
しかし、落馬した頼朝について大騒ぎが起きた様子はありません。実は、一過性脳虚血発作は症状が治まると後遺症もないので頼朝も一時的に手足が痺れただけで回復し、また乗馬して帰ってきたと考えられます。
落馬は当時、よくある事で、周囲も頼朝に怪我がない事からあまり気にしなかったと考えられます。周囲も頼朝がウッカリ落馬したのだと考えたのでしょう。
しかし、一過性脳虚血発作は発症から90日以内に脳梗塞を引き起こすリスクが高く頼朝もしばらくして脳梗塞を起こし、そのまま死んだと考えられます。
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大江広元や北条義時は源頼朝の死は天罰と考えていた
頼朝が落馬し、しばらくして死んだ事で相模橋は縁起が悪い橋と考えられたようです。当時は歯痛が原因で人が死ぬとは予想もしていないので、落馬が頼朝の死のきっかけになったと薄気味悪く感じたのでしょう。
相模橋は老朽化が進み、頼朝の死から13年後、建暦2年(1212年)2月には修繕してくれるように三浦義村に訴えがあり義村は協議すべく、この訴えを三代将軍、源実朝に提出します。
この時、会議には三浦義村、大江広元、三善康信、そして北条義時がいましたが4人は
「相模橋は縁起が悪い橋であり、橋を渡った頼朝に殃(禍)が襲い、その後、稲毛重成も畠山に冤罪を着せようとして殃を受けた。こんな縁起の悪い橋は修理しなくても、罰が当たる事はない」と満場一致しました。
つまり、この4人は頼朝の死は何かの呪いであり自然死ではないと考えていた事が窺えます。頼朝には術策が多く大勢人を殺したから、その報いだと考えたのでしょう。
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実朝が天罰ではないと主張
しかし4人の決断に、21歳になったばかりの将軍実朝は気分を悪くします。そりゃそうでしょう。お前の親父は人を殺し過ぎて呪いを受けて死んだと言われて面白いわけがありません。このように言い返しました。
頼朝公が亡くなったのは源氏の棟梁として20年も政治を動かし、位人臣を極めてあとの事で呪いではなく天寿である。また、稲毛重成は己の野心で天罰を受けたのであり、妻を供養して架けた橋の禍いではない。今後、二度と相模橋が不吉だと言ってはならぬ
相模橋があれば二所御参詣の要路として、庶民は遠回りをしないで済み、その福利に役立つ事は一様ではない。完全に壊れてしまう前に修理をするように
文面は諭すようですが、内心は相当に怒っている感じです。これを見ると頼朝の死は落馬から、かなり急であり医学が発達していない当時、これを祟りと見る風潮が幕府の中枢にあった事が分かります。
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歯周病による死が祟りや呪いの俗説を産んだ
頼朝の死因は、当時の人々には分かりませんでした。まさか歯周病から脳梗塞を起こしたとは夢にも思わず、考えられる事として何かの呪いを受けて落馬し急死したのだと思っても不思議はないでしょう。
頼朝の死因については、平家の亡霊や誅殺した御家人の幽霊を見て頼朝が卒倒したという話もあり、相模川の水神に見入られたというようなオカルトな話もあります。
実際に頼朝はライバルを殺し身内を粛清した人であり、いくらでも後ろ暗い過去があり、呪いや祟りには事欠かない人だったので、同時代の人々は呪いによる死と信じ、それは北条義時や、大江広元でも変わらなかったのではないでしょうか?
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日本史ライターkawausoの独り言
NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人では、頼朝の死因を手の痺れが全身に広がり、それから落馬したと一過性脳虚血発作を採用しているようです。ただ歯痛についてはドラマでは言及がなく、天に見放されたとする運命論もミックスされると考えられます。
しかし、頼朝の死を伝える愚管抄や日月記が、頼朝の落馬について触れていない事を見ると、頼朝の落馬は京都に伝わる事がなく、その後、頼朝が急死した事で原因を探るうちに鎌倉周辺では落馬は祟りによるものと考えられるようになり、死のきっかけとみなされたのではないでしょうか?
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