源頼家とはどんな人?生まれながらの将軍はどうして殺害されたのか?【鎌倉殿の13人】

29/03/2022


鎌倉殿13人 北条義時

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、第12話は「亀の前(かめのまえ)事件」です。

 

いよいよ頼朝の浮気が政子にバレてしまい、頼朝が亀の前を匿っている屋敷を政子の指示を受けた牧宗親(まきのむねちか)が襲撃して破壊するドタバタが発生します。それと同時に鎌倉では頼朝待望の男子、万寿(まんじゅ)が誕生しました。

 

この万寿が悲劇の将軍、源頼家(みなもとのよりいえ)になるのですが、今回は頼家の生涯を見てみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


寿永元年、頼朝と政子の子として誕生

戦国時代の武家屋敷a

 

源頼家は寿永(じゅえい)元年(1182年)8月12日源頼朝の嫡男(ちゃくなん)として鎌倉比企ヶ谷(かまくらひきがだに)比企能員(ひきのよしかず)の屋敷で生まれます。母は北条政子で頼朝の正室であり、周囲に待ち望まれ祝福された誕生でした。すでに頼朝は鎌倉で論功行賞を済ませ鎌倉殿(かまくらどの)と呼ばれていて、頼家を産まれながらの将軍と考える事も出来ます。

 

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はじめての平安時代

 

 

頼朝の意向で比企氏を身内として育つ

比企尼 女性 鎌倉殿の13人

 

ただ、頼家誕生の段階で頼朝による北条氏に対する牽制(けんせい)は始まっていました。頼家が北条時政の屋敷ではなく頼朝の乳母(うば)である比企尼(ひきのあま)の甥、比企能員(ひきのよしかず)の家で誕生したのもその一つです。

 

頼朝は北条氏の勢いを牽制すべく、頼家の乳母には比企尼の次女や三女、梶原景時(かじわらのかげとき)の妻、比企能員の妻を宛て、さらに乳人夫(めのと)には比企能員を指名します。これまで大した手柄もなかった比企能員はこの事で鎌倉幕府内で勢力を築いていく事になりました。

 

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比企氏と梶原氏を後見人とする

源頼家 鎌倉殿の13人

 

頼家が長じるに従い、側近が頼朝により任命されますが、それは比企宗員(ひきのむねかず)比企時員(ひきのときかず)北条時房(ほうじょうのときふさ)中野能成(なかののよしなり)源性(げんせい)義印(ぎいん)紀行景(きのゆきかげ)平知康(たいらのともやす)などであり、後見人は梶原景時と比企能員でした。

 

学問を極めて政治家へ成長した源頼朝

 

北条時房以外は、比企氏と頼朝が京から呼んだ人材であり、頼朝が意図的に北条氏が頼家に影響を与えるのを排除しているように見えます。

 

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巻き狩りでの政子との温度差

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

建久(けんきゅう)4年(1193年)5月、頼朝は富士で大規模な巻狩(まきが)りを開催し、そこに後継者である頼家を同行させました。この巻き狩りで11歳の頼家は見事に鹿を仕留め、頼朝は大喜びで政子に報告の使いを出しています。

 

しかし、政子は

「源氏棟梁(とうりょう)の嫡子であれば鹿を仕留めるくらいは当たり前の事である」と使者を追い返したそうです。

 

北条政子とラブラブな源頼朝 鎌倉 女性

 

これには政子が比企氏と関係が深い頼家を憎んで祝福しなかったという説や、信心深い頼朝が頼家が鹿を射止めたのは神意であるとして政子に報告したのを、政子がただの親バカと判断して追い返したという説などがあります。

 

ただ、頼家は誕生した時より、比企能員の屋敷で生まれ、能員の娘である若狭局(わかさのつぼね)を正室に迎えていました。政子や北条家は実家と言っても縁が薄く、お互いに情愛が薄かったとしても不思議はありません。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

頼朝の急死で二代の鎌倉殿へ

鎌倉幕府を開くが急死した源頼朝

 

建久6年(1195年)2月、頼朝は政子と頼家・大姫(おおひめ)を伴い上洛し頼家は頼朝の後継者として朝廷に認知されます。頼家は16歳で従五位下右近衛権少将として叙任されました。

 

建久10年(1199年)父、頼朝が急死します。これを受けて頼家は1月20日付で左中将となり26日に家督を相続し2代の鎌倉殿に就任します。鎌倉からは政変を警戒し大勢の武士が京都に上洛し、その中で三左衛門事件(さんざえもんじけん)も発生しました。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

頼家が家督を相続してより3ケ月後の4月、北条氏ら有力御家人による13人の合議制が敷かれます。それまで訴訟は、鎌倉殿が臨席して裁くしきたりでしたが御家人たちは頼家が直接に訴訟を受理し裁く事を禁止しました。

 

十三人の合議制の仕組みを作った北条義時

 

反発した頼家は、小笠原長経(おがさわらのながつね)、比企宗員、比企時員、中野能成等、頼朝が頼家につけた近習を側近とし、彼らを通さないと自身への目通りを許さず、同時にこの五人に御家人は手向かってはならないとします。このように比企一族を中心とする将軍頼家に与する派閥と坂東武士団を中心とする御家人の派閥に溝が生じていきました。

 

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源頼朝

 

 

後見人、梶原景時を失う

公家同士の会議(モブ)

 

頼家にとって、一番の後ろ盾は外戚でもある比企氏、そして頼朝以来仕え鎌倉殿の一の子分と呼ばれた梶原景時でした。当然、頼家の将軍専制に反対する御家人勢力は、この両者を排除しようとします。

 

そんな最中、御家人の長老格である結城朝光(ゆうきのともみつ)が頼家の政治を批判したとして、梶原景時が朝光を逮捕しようとする事件が発生。この事件を契機に反景時の御家人勢力は結集して66人の梶原景時弾劾状(だんがいじょう)が作成され、政所長官(まんどころちょうかん)大江広元(おおえのひろもと)を通じて頼家に提出されます。

 

戦国時代の武家屋敷b

 

頼家は景時を呼び出して弁明するように命じますが、景時は弁明せずに所領に謹慎しました。しばらく後、景時は鎌倉への復帰を願い出て、頼家も復帰を叶えようとしますが御家人勢力は猛反発し頼家は復帰願いを却下します。

 

正治(しょうじ)2年(1200年)1月、失意の景時は一族を率いて鎌倉を出て、京都に向かう途中に在地の御家人勢力から襲撃され討死しました。

 

テレビを視聴するkawauso編集長 ver.2

 

同時代の九条兼実(くじょうのかねざね)の日記「玉葉(ぎょくよう)」によると景時は頼家の弟である千幡を将軍に擁立しようとする動きが御家人にあると頼家に報告。公開討論となりますが言い負かされて一族共に追放されたと記されています。

 

頼家の後見人としても梶原景時は有能で、もうひとりの比企能員は苦も無く時政に討たれているので、ここで景時を守れなかった事は頼家の大きな失策となりました。

 

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北条義時

 

 

征夷大将軍となるが重病に倒れる

熱病に臥せった平清盛

 

建仁2年(1202年)7月22日、頼家は従二位(じゅにい)に叙され征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)宣下(せんげ)を受けました。建仁3年(1203年)3月頃、頼家に体調不良の兆候が出ます。幼少期から体が弱かった頼家ですが、嫡男の一幡(いちまん)は5歳になったばかりで自分の行く末に不安を感じたのかも知れません。

 

同年5月、頼家は死後の不安を解消するように、弟千幡(せんまん)の乳母、阿波局の夫で叔父である阿野全成(あののぜんじょう)を謀反の疑いで逮捕し流罪にした後で殺害します。

 

 

頼家は、さらに叔母である阿波局も逮捕しようとしますが阿波局の姉妹である北条政子が阿波局を匿い引き渡しを拒否し断念しました。同年7月、頼家の病状は重くなり、8月末には危篤状態に陥ります。

 

戦いを決意する北条義時

 

この頃、鎌倉から京都に使者がきて、いまだ頼家存命中にもかかわらず、弟の千幡に対する征夷大将軍任命が要請されたと京都の記録にあり、恐らく北条氏の手によるものと考えられます。

 

燃える本能寺(モブ)

 

鎌倉から使者が立った前後の9月2日、鎌倉では北条時政が頼家の乳人夫で一幡の外祖父である比企能員を屋敷に招いて謀殺(ぼうさつ)。さらに北条政子は御家人に命令を下し、比企氏が謀反しようとしたとして一族をことごとく滅ぼしてしまいました。

 

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伊豆修善寺で無念の最期

 

その後、奇跡的に回復した頼家ですが比企氏を滅ぼされ、また御家人勢力には北条氏による根回しが済んで無力な存在に落ちていました。

 

怒りに燃える頼家は、一幡の乳人夫(めのと)である仁田忠常(にったのただつね)侍所長官(さむらいどころちょうかん)である和田義盛(わだのよしもり)に北条氏誅殺を命じる御教書(みきょうしょ)を出しますが、義盛は思案の末にこれを時政に見せます。

 

和田義盛 鎌倉殿の13人 武士

 

時政は、もはや頼家を生かしてはおけないと考え、御所に突入して頼家を捕らえると、将軍位を剥奪して伊豆の修善寺に流して幽閉しました。元久(げんきゅう)元年(1204年)7月18日、頼家は北条氏の放った刺客により殺害されました。満21歳という若さです。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

吾妻鏡(あずまかがみ)にはその死について飛脚から頼家死去の報があったと記すのみですが、殺害当日の日付の「愚管抄(ぐかんしょう)」によると頼家は入浴している時に襲撃され殺害されたそうです。

 

しかし、頼家は武芸の達人であり丸腰でも刺客が簡単に近寄れなかったそうで、手こずった刺客が、頼家の首にひもを巻きつけて絞めあげ、睾丸を掴んで動きを止めようやく刺し殺す事ができました。最期まで己の運命に抗った頼家らしい最後です。

 

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源義経

 

 

源頼家は本当に暗君だったのか?

暗殺(寝ているシーン)モブ

 

吾妻鏡は執権北条氏の影響下で書かれたので、頼家を横暴な暗君として記録し、その資質を危ぶんだ北条時政の手によりやむなく殺害されたとしています。

 

しかし、実際に頼家を暗君とするに足る逸話はなく、若年のために未熟な面はあるにせよ、経験を積めば、頼朝のようにリーダーシップを執れるようになったかも知れません。

 

常に北条家に監視される源頼朝

 

ただ、頼家にとって不幸だったのは、父の頼朝が強引な政治をおこない関東の御家人の不満を集めていたという事で、頼朝の急死で不満のはけ口が頼家に向ってしまった事でした。頼家が父のやり方を反省し、御家人との協調政治を目指せば、また歴史は違ったかもしれませんが、年若い頼家にそれを望むのは酷な事でしょうか?

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は悲劇の鎌倉幕府二代将軍、源頼家について解説しました。吾妻鏡の影響で暗君として片付けられがちな頼家ですが、近年の研究では若年ゆえの未熟さはあれど、暗君というほどのケースは見られないようです。

 

ただ、先代の頼朝が御家人の意向を無視したかなり強引な政治をしていて、頼朝の急死により不満の矛先が頼家に向い、頼家も若さゆえにその事に気づかず、父同様の将軍専制を志して御家人の不満を爆発させ、それが自身の失脚という形で跳ね返ったという事はあり得るかも知れません。

 

頼朝の寿命がもう少し長く、頼家が政治的なキャリアを積むまで長生きしていれば、源氏将軍が三代で途絶える事も無かったのではないでしょうか?

 

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