日本史の授業で必ず習う明治時代の自由民権運動。民選議院設立建白書という長いワードと板垣死すとも自由は死せずのセリフが印象的ですが、自由民権運動全体となると覚えていない人も多いハズ。
そこで、ほのぼの日本史では、自由民権運動の始まりから終わりまでを分かりやすく解説致します。
この記事の目次
自由民権運動の始まり
自由民権運動は、征韓論争で敗れて参議を辞職した板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣等が政治結社である愛国公党を結成した所から始まります。
板垣達が征韓論で敗れたと言っても、西郷を全権大使として李氏朝鮮に派遣する事はすでに太政大臣三条実美の承認を得て閣議決定し、当時の世論も征韓論を圧倒的に支持していました。
これを裏工作でひっくり返したのが、岩倉具視や大久保利通のような穏健派であり、征韓論派も世論もやり方が汚いと憤り大久保等への不信が渦巻く事になります。
板垣退助は、政治を一部の政治家や官僚の独裁に委ねる有司専制を批判。政治を国民に開かれたものにすべきであると訴えました。
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五カ条の御誓文を根拠に議会政治を求める
板垣は明治天皇が出した五カ条の御誓文の第一条、広く会議を興し万機公論に決すべしという言葉に着目します。
「広く会議を興すとは国民が政治に参加するという事であり、万機公論に決するとは私利私欲を捨て天下万民のために公の議論をせよという事だ。議会開設は畏れ多くも天皇陛下が皇祖高宗に誓われた事であるぞ!」
こうして板垣は、明治天皇の誓いに従い、政府は早急に国民の代表を選挙で選び議会政治を興すべきであると、当時の立法院である左院に民選議院設立建白書を提出します。
五カ条の御誓文を盾に取られた左院は、まさか出来ないとも言えず、「誠に仰る通りではあるが、我が国はまだ、近代化の途上であり議会政治は時期尚早であると考える」と却下しました。
この却下された建白書は、イギリス人のブラックによる新聞「日新真事誌」に掲載され、板垣の国会開設の提言が世間に知られることになります。
日本史上初めて国民が国政に参加すべしとした板垣の提言は、多くの日本人の心を掴み、民選議院を設立すべきか否かの論戦が新聞紙上で盛んに戦わされ、新聞に影響されて自由民権について真剣に考え、行動を起こす人々が登場しました。
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大阪会議
提案を拒否された愛国公党の面々は、まずは自分の地盤を固めることから活動することに決し、板垣退助の土佐勢は高知に戻り立志社を設立します。
明治8年(1875年)2月、板垣退助は国会開設運動を全国組織に拡大する事を目指し、大阪で愛国社の結成に奔走しますが、その中で、「国会開設を本気で目指すのであれば、なぜ参議を辞職したのか、政府の中で改革すべきではないか?」という批判もあり、大阪会議の結果、板垣は政府内から国会開設の目的を果たす戦略を考え3月に参議に復職しました。
しかし、参議に復職したのを変節と批判する声もあり、板垣は同年10月には再び辞表を書いて在野に戻ります。
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士族反乱と自由民権運動
大阪の愛国社は板垣が公職に就いたために活動ができず資金難で一旦消滅しました。板垣等の自由民権運動と並行し、明治7年の江藤新平の佐賀の乱を皮切りに前原一誠の萩の乱、太田黒伴雄の神風連の乱など士族反乱が相次ぎます。
明治10年、西郷隆盛が鹿児島で挙兵すると、立志社内部でも西郷隆盛に呼応して挙兵しようとする勢力があり幹部が逮捕されました。自由民権運動と言うと言論の戦いと考えがちですが西南戦争が鎮圧される頃まで言論と武力闘争の境は曖昧なものだったのです。
そもそも、明治維新自体が武力によって達成されたものですから武力による政府転覆を自由民権論者が考えるのは自然な事でした。
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農村や都市にまで運動が拡大する
明治11年、板垣退助は愛国社を再興、明治13年の第四回大会で国会期成同盟が結成されます。
こうして国会開設の請願と建白が多数提出されますが、運動の中で地租改正を掲げる事で運動は士族のみならず農村まで浸透していきました。特に各地の農村の指導者層に地租は重圧で負担であり、これにより運動は全国民的なものに変化します。
自由民権運動が農村にまで普及した要因は、士族反乱が農民一揆と結ぶ事を恐れた政府による地租軽減や、西南戦争の戦費を補うために発行された不換紙幣の増発によるインフレーションにより農民の租税負担が減少して、政治運動をする余裕が生じてきた事が挙げられます。
現在のように高速道路や新幹線が普及せず、電話でさえ稀な明治初期に各地の民権運動家と連絡を取ったり往来するのはかなりの経済的な余裕が必要でした。豪農が自由民権運動の中心になると、国民の政治参加よりも政治的な要求として民力休養や地租軽減が上位になります。
こうして自由民権運動が浸透すると農村ばかりでなく、都市のブルジョワ層や貧困層、博徒集団まで、当時の政府の方針に批判的な多種多様な立場から参加が多く見られました。
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滅茶苦茶な政府の弾圧
民権運動の盛り上がりに対し、政府は明治8年には讒謗律、新聞紙条例の公布、明治13年には集会条例など言論弾圧の法令で対抗します。
讒謗律とは難しい言葉ですが簡単に言うと名誉棄損の事です。名誉棄損は今でもありますが、讒謗律の悪質な点は、一般市民だけでなく、天皇、皇族、官吏まで含まれており、事実の有無に関係なく他人の名誉を棄損する事を有罪としました。
当然、政治家を批判する事も事実の有無に関係なく有罪となるので政治批判を抑えるのが目的である事は間違いありません。さらに政府は、集会条例で国民が政治集会に参加する事を屋内の許可制とするのと同時に警官が監視して言論を監視していました。
新聞条例も、年々強化され新聞に反政府的言論を掲載することを禁止し、罰金や発行禁止、筆名の禁止などで新聞を締め付け、大幅な改正があった明治16年4月には、355紙あった新聞が年末までに199紙に激減しています。
権力の強力さと執拗さは、このような恐ろしいものなのです。
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私擬憲法の誕生
自由民権運動では、戦後でも実行されなかった興味深い事が起きていました。それが国民の手で憲法を制定しようとする私擬憲法です。板垣退助は国会期成同盟において国約憲法論を掲げ、その前提として自ら憲法を作ろうと明治14年までに私案を持ち寄る事を決議します。
板垣の考えでは、憲法は君主と人民の一致に基づいて定めるべきものとし、まずは憲法制定のための国民議会を開いて、憲法について協議し皇室の安泰と人民の福祉の両面を考えて制定し、万世不易の根本法とすべきとしています。
板垣が国約憲法の考え方を出してきたのは、政府が自分達に都合のよい憲法を定めることを牽制する狙いがありました。
しかし明治20年、明治政府の保安条例により、私擬憲法の検討及び作成は禁じられ、明治23年に発布された大日本帝国憲法は私擬憲法の影響を一切受けていません。
私擬憲法は個人、団体で有名なものだけでも30以上も存在し、千葉卓三郎の五日市憲法や、植木枝盛の東洋大日本国国憲按が特に著名です。
私擬憲法は多種多様で、人民主権や議院内閣制を主張する穏健な内容から、植木枝盛の東洋大日本国国憲按のように、日本国憲法にも盛り込まれていない抵抗権や革命権を盛り込み、国民投票で天皇を廃位する規定を盛り込む過激な内容までありました。
ですが、内容が様々という事は明治の人々が憲法を我が事として考え、日本の将来を真剣に見据えた結果であるとも言えます。戦後日本では憲法改正論議があれど、憲法そのものを見つめ直し、一から作るという発想はなく明治を生きた人々の気宇壮大さを感じますね。
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国会開設の詔
明治14年(1881年)10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されます。明治政府は自由民権運動の高まりを受け執拗に反対して火に油を注ぐよりも、いっそ国会開設を認めて自由民権運動のハシゴを外し、内部分裂を狙ったのです。
国会開設の詔を受け、国会期成同盟第三回大会では、自由党が結成され板垣退助が総理(党首)に就任しました。
同じ頃、明治政府内で国会開設に前向きだった大隈重信が明治14年の政変で参議、伊藤博文らによってクビになって在野に下りこちらも明治15年に立憲改進党を組織し総理となります。
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板垣死すとも…
板垣退助は全国を遊説して回り、自由党の党勢拡大に努めていましたが、明治15年4月6日、岐阜で遊説中に暴漢相原尚褧に襲われ負傷します。
その際、板垣は胸部から出血しつつ、側近の竹内綱に抱きかかえられて起き上がり、「吾死するとも自由は死せず」と啖呵を切ったと言われ、これがやがて新聞報道により「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く世間に伝わりました。
岐阜事件と呼ばれた板垣暗殺未遂事件は、自由の闘士としての板垣の名声を全国に広め人気はうなぎ上りになります。国会開設後に板垣に主導権を握られるのを恐れる明治政府は、板垣の名声をなんとしても落そうと内部分裂工作を進める事になりました。
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自由民権運動内部分裂
明治十四年の政変により、大隈重信を中心とする政府内部の急進派が一掃されます。これにより明治政府は藩閥を率いる伊藤博文を中心に守旧派で一本化され、結果的に、より強硬な自由民権運動弾圧に転じました。
同時に伊藤は内部分裂も狙い、後藤象二郎を通じて自由党総理の板垣退助に欧州視察を勧めます。金銭に拘泥しない板垣は、常に貧しく欧州に旅行した事もないので、旧友の後藤の誘いに乗って渡欧を決意。これに対し党内部から馬場辰猪、大石正巳、末広鉄腸らが「この重大な時期に政府の金で旅行とはどういう事か!」と批判が噴出したのです。
板垣退助は批判に対し3名を自由党から追放するという処置に出たので、失望した中江兆民や田口卯吉までが自由党を離党します。
さらに大隈の改進党系の郵便報知新聞も自由党と三井の癒着を含め板垣を批判。これに対し、自由党系の自由新聞が逆に改進党と三菱との関係を批判するなど泥仕合と化しました。
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混乱の中で激化事件が頻発
一連のスキャンダルで世間は自由党や改進党に愛想を尽かし、政党は批判と分離を繰り返し勢力を失っていきます。
政府の弾圧が強まる中で大井憲太郎や内藤魯一など自由党急進派はテロをも辞さない過激な戦術を検討。また、松方デフレにより租税が重くなり困窮した農民たちも、国会開設を前に準備政党化した自由党に不満を募らせます。
こうした背景から明治14年には、秋田事件、明治15年には福島事件、明治16年には高田事件。明治17年には群馬事件、加波山事件、秩父事件、飯田事件、名古屋事件、1886年には静岡事件等と全国各地で「激化事件」が頻発しました。
これらの農民一揆は急進派の自由党員や民権派の結社、窮迫した農民が連携して起こしているのが特徴で、加波山事件では爆弾テロが計画され未遂に終わります。急進派の煽りを受け、明治17年に自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈重信が脱党して事実上分解するなど大打撃を受けています。
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激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」
国権を巡りうねりを見せる運動
一度は沈静化した自由民権運動ですが、明治20年に起きた三大事件建白により、再び大きなうねりを見せます。明治19年、第1次伊藤内閣の外務大臣井上馨が条約改正のための会議を諸外国の使節団とおこないますが、日本側の提案には関税引き上げや外国人判事の任用など大幅な譲歩がなされていました。
これに対し、小村寿太郎や鳥尾小弥太、法律顧問菅ボアソナードが反対意見を表明。明治20年には農商務大臣谷干城が辞表を提出する騒ぎになります。
やがて新聞により屈辱的な条約改正の実態が明らかになると民権派は一斉に政府を非難、東京では学生や壮士によるデモも起きました。
この状況で、片岡健吉を代表とする高知の民権派が、今回の混乱は国辱的な欧化政策と言論弾圧による世論の抑圧になると唱え、言論の自由の確立、地租軽減による民心の安定、対等な立場による不平等条約の改正を柱とした「三大建白」と呼ばれる建白書を提出します。
自由民権運動と言うと国民の権利の拡充という一面だけが強調されますが、実際には民権だけではなく、国権も同様に重視されていました。民権を拡張すると同時に、国権を増していく事で富国強兵を助け不平等条約の改正に繋がり、日本が真の独立国になるというのが当時の自由民権運動だったのです。
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帝国議会開催、戦いは議会へ移行
折しも後藤象二郎による大同団結運動が盛り上がっている最中であり、片岡健吉以外にも尾崎行雄や星亨もこれに応じて民権派の団結と政府批判を呼び掛けます。
これに対して政府が保安条例制定して、片岡をはじめとする多くの運動家を追放、逮捕し、同時に後藤象二郎や大隈重信を入閣させるなどで運動は沈静化しました。
挫折を余儀なくされた自由民権運動ですが、明治23年第1回総選挙がおこなわれ、定数300の内、民権派は立憲自由党が130、立憲改進党が41議席を獲得。与党系の大成会や国民自由党の84を大きく上回りました。
こうして自由民権運動は、一定の成果を挙げて使命を終え、以後の民権運動は帝国議会においての政党と政府与党の戦いへと移行していくのです。
フランス革命やロシア革命のような体制転覆の形こそ取りませんでしたが、自由民権運動は紛れもない国民を主体とした権利獲得の運動であり、日本における民主主義のプロセスを進めた特筆すべき事件でした。
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日本史ライターkawausoの独り言
自由民権運動は、征韓論争において一度閣議決定がされたものを大久保利通や岩倉具視が裏工作でひっくり返した事に憤激した征韓派の行動から始まりました。
五カ条の御誓文の第一条を盾とした板垣退助等の主張に、明治政府は時期尚早として回答を避けますが、やがて士族反乱を経て、自由民権運動は言論の戦いとなり、地租のような農民の負担軽減を求める国民運動へと変化して行きます。
その道のりは決して平坦ではありませんでしたが、紆余曲折を経た運動は帝国議会へと結実し、やがて藩閥政治は政党政治に打倒される事になりました。日本の民主主義は戦後アメリカからもらったのではなく、五カ条の御誓文を元にした自由民権運動の展開により確立されたものなのです。
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