戦国時代は一揆が頻発した時代で、農民も惣を結成して団結し村の利益を守る為に、別の村や国人勢力、ひいては守護大名とも争いました。しかし、そんな農民は戦国大名が登場するとその支配下に入っていくようになります。
では、どうして戦国時代の農民は戦国大名に従ったのでしょうか?
後北条氏が採用した目安という訴訟手続き
農村が戦国大名を支持した大きな理由は目安と呼ばれる裁判制度でした。
目安は後北条氏の領地において1550年からおこなわれた訴訟の手続きです。
小田原城など北条氏の拠点となる城門に目安箱を設置し、訴えたい事がある者が訴状を投函すると、北条氏の重臣数名で構成される評定衆の下に訴状が届き、次に担当者が署名をした上で被告に送付し訴えに異議があるなら反論状を送るように、うながす仕組みになっていました。
こうして、裁判の日時が告示され、北条家の当主が出席の上で被告と原告の代表が出頭し、訴状と反論状の内容を吟味した上で判決が下されていました。もし、裁判に欠席すると欠席した側が無条件で負けになったようです。
裁判が終わると原告と被告の双方に後北条氏の虎印が押された裁許朱印状が届き、裁判がおこなわれた証拠が残されたのです。
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直接村と繋がった戦国大名
今では珍しくもない訴訟制度ですが、実は戦国時代に到るまで農村が直接、権力者に訴えを起こす術はありませんでした。中世権力においては、村が訴訟を起こそうと思えば、まずは自分達が所属している領主に訴訟を起こしてくれるように頼み、そこから段階を踏んでようやく訴訟に持ち込む事が出来ました。
しかし、そこに到るまで村では謝礼や礼物の名目で訴訟関係者に多額の献金をしないといけなくなり、費用でも手続き面でも高いハードルがあったのです。
さらに、このやり方では訴訟の窓口である領主を訴えるのは難しい事になります。
しかし、後北条氏はこうした難しい訴訟手続きを簡単にし、目安にさえ訴状を入れれば、少ない事務手数料だけで、自分の直接の領主であっても訴える事を可能にしました。
目安という制度は後北条氏だけでなく、今川氏、そして武田氏にもあり、武田氏に至っては、「武田晴信の命令や政策に間違いがあったら誰でも訴え出るがよい」と書いています。
戦国大名の登場まで農村にとって権力は一方的に税金を取られるだけの縁遠い存在でしたが、戦国大名は構造改革により直接農村と繋がる事を重視した「顔が見える権力者」だったのです。
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村が栄えれば戦国大名も栄える
では、どうして戦国大名は従来の権力が見向きもしない農村に、ここまで近づいて便宜を図ろうとしたのでしょうか?
それには、戦国大名が中央とのパイプを持たず領地を実効支配する事で生計を立てられ、農村とは運命共同体だったからです。
例えば北条氏綱は息子の氏康に対して遺言で
「贅沢をせず倹約第一を心掛けよ。なぜなら贅沢をすれば百姓から過重な年貢を取り、商売の利益を取り上げる事になる。そうなれば、国中で財政に苦しみ借金する者が増え、ついには田畑を棄てて一家離散し年貢を取り立てる事も出来なくなるし、百姓に恨まれれば他国に侵略の隙を与え、北条家は弱くなってしまうだろう。百姓が豊かになれば当家も自然に豊かになるのだ」
このように氏綱は、贅沢を誡め、百姓を富ませる事が北条家を強くする道と説きます。村が栄える事が戦国大名が栄える道であるとすれば、第一に農村の便宜を図るのは、自然な事でした。
後北条氏に限らず強力な戦国大名は、富を生み出す農村を「金の鶏」として大事にしたからこそ、乱世に強固な基盤を築けたと言えるでしょう。
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農村は戦国大名の軍事力に期待
中世の農村では、自検断が当たり前でした。自倹断とは自力救済の事で他人の力に頼らず、やられたらやりかえす精神で紛争を解決するという考え方です。
とても勇ましく主体的な自倹断ですが、実際には調停が上手く行かずに合戦になり、死傷者への弔慰金や合戦の手伝い費用で村の財政が火の車になる事もしばしばでした。
また、敗北した場合には賠償金で村の収益の数年分が飛んでしまい、借金返済で村全体が貧困に喘いだりします。
ところが、戦国大名の目安を利用した場合は、大名は自らの軍事力を無言の圧力として判決に不服がある相手を完全に黙らせる事が可能でした。結果として村は死傷者も出さず、賠償金や合戦の手伝い費用や弔慰金もなしに、人的負担と物的負担を大幅に軽減できたのです。
これは村を豊かにする事に直結する事なので、村にとっても歓迎すべき事でした。村が戦国大名に従った事には、こういう背景もあったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は戦国時代の農民がどうして戦国大名に従ったのかを解説しました。戦国大名は、それまでの中央主体の権力と違い地方に割拠したローカルな存在なので、農村とは運命共同体でありその分武装し自力救済に慣れた農村も心を開いて支配に服した側面がありました。
しかし、農村は戦国大名に盲従していたのではなく対等な立場で協定を結んでいたに過ぎず、少しでも戦国大名が横暴な姿勢を見せると田畑を棄てて逃げていったり、年貢の軽減を求めたり、一定の緊張感をもって付き合っていた事を忘れてはいけません。
だからこそ、戦国大名は農村支配に胡坐をかくことなく、村の繁栄に心を砕く事を忘れなかったのです。