武装して法皇をおびやかす延暦寺
平安末期には天皇は子供が儀礼を担当し、引退後に上皇。そして出家した法皇となってから政治的な実権を握ることが多くなりました。これら院政の時代に、台頭してきたのが平家。
この平家の政治的な権勢が強くなることを警戒したのが後白河法皇です。そしてこの両者が徐々に対立を深めますが、ここにも延暦寺の影がちらつきます。きっかけは延暦寺の大衆(僧侶の集団)が、法皇の近臣・西光(さいこう)の長男・藤原師高の配流を求めた白山事件。
これは次男・師経が加賀の白山にあった寺を焼いたことによるものでした。法皇は師経の配流で済ませようとしたが、延暦寺は納得しません。神輿を持ち出して内裏に迫り、ついに武力的に衝突。
神輿に矢が当たったことでさらに激化し、結果法皇が延暦寺に妥協せざるを得ません。しかし法皇は西光の訴えにより天台座主・明運を解任するなどを指示。この動きに大衆たちが反発し、捕縛された明雲を奪還します。それを知った法皇は、比叡山そのものへの攻撃を検討。
神戸・福原にいた清盛が急遽京都に入り、法皇から比叡山攻撃の命令を受ける事態になります。ところが鹿ヶ谷の山荘での平家打倒の密義があると密告するものが現れました。結局西光がその首謀者として、清盛により斬首。
法皇は近臣のひとりを失います。結果的にに比叡山の攻撃は中止。しかし法皇が対立していた清盛に頼まないといけないほど延暦寺には影響力がありました。
延暦寺はどうやって儲けた?
宗教組織ながら政治的な権力者への影響を持つ延暦寺がそこまで力を持った理由として、潤沢な資金源の存在があります。つまり延暦寺は儲けていました。その理由として以下のものが挙げられます。
1. 参拝客の賽銭や寄付
2. 境内で商売するものへの場所代
3. 集まった資金を貸し出しさらに利益を稼いだ
4. 全国にある荘園からの収益
信仰の中心である寺院には参拝のために多くの人が訪れます。参拝客による賽銭や寄付による直接的な収益。また集まってくる人相手に商売するものが現れます。気が付けば定期的な市場になりました。
その境内を使って商売をするので、場所代を寺院側が求め。それが収益となりました。さらに集められた資金を使って他人に貸す貸金業のようなことも行っています。平安時代から戦国時代までは荘園と言うものを有力者が全国に所有しており、延暦寺も多数の荘園を所持していました。
そこからの収入もあります。また公卿らが荘園を寄付する例があり、さらに資金源となります。つまり宗教組織でありながら経済活動の中心が比叡山に存在しました。
結果的に潤沢な資金を確保することになります。そして資金を背景に政治的な権力者に口出しできるほどの力を持ったり、武器を買い集め僧兵を構成して邪魔な敵と戦ったりすることができました。
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平清盛や源頼朝も比叡山を恐れた
延暦寺の力は年々強くなり、後に日本を支配するほどの権力者も容易に手が出せません。平家の天下を構築し厳島神社を造営した平清盛もそのひとりです。
1147年に清盛は祇園臨時祭りで護衛をしていました。その平氏の郎党のひとりが祇園社の神人と騒動を起こします。このことに激怒した延暦寺が大衆を使い、清盛とその父忠盛の配流を朝廷に強く求めます。当時の崇徳上皇は、それを抑えながら主だった公卿と協議します。
ことを穏便に済ませようと考えていた朝廷側の動き。「そのような考えでは納得できぬ、ふたりを配流せよ」と、延暦寺はさらに強くできます。朝廷側は延暦寺の入京を阻止しようと必死に抵抗。清盛を罰金刑に処します。
また上皇が祇園社で法華八講を修し 忠盛が寺領を祇園社に寄進するなどしてどうにか騒動を収めます。清盛は配流こそ逃れたものの、しばらく朝廷内の昇進が止まるなどの影響を受けています。
また鎌倉幕府を成立させた源頼朝も延暦寺には容易に手が出せません。壇ノ浦で平家を滅ぼしその活躍により勝手に後白河法皇の任官を受けてしまった弟の義経。
「秩序が乱れる。弟といえども許さん」頼朝は弟を断罪。
ついに追手を使わし義経を殺そうとします。そこで義経は弁慶と共に比叡山に逃げます。ここで延暦寺の僧兵が、興福寺の僧兵と共同で頼朝から義経を守りました。その結果義経は奥州平泉まで逃げることに成功します。つまり幕府将軍と言えども容易に手が出せないのが延暦寺でした。
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最高権力者天台座主とは?
天台宗総本山延暦寺の住職を「天台座主」と呼びます。これは天台宗のトップのこと。実質的には日本宗教界の最高権力者です。1563年に来日したルイス・フロイスが著書『日本史』で、「日本で新たな宗教を布教するには比叡山延暦寺の許可が無ければ不可能である」と記すほどの力を持っていました。
初めて天台座主を名乗ったのは義真(ぎしん)という僧で、当初は奈良興福寺に属しています。そののち最澄の弟子となります。最澄が遣唐使で唐に渡るときには通訳を担当しました。
最澄の右腕として天台宗の発展に寄与し、最澄没後に天台宗をまとめ上げました。対立するきっかけとなる円仁・円珍も点在座主。3世の円仁の時代から明治維新までは太政官が任命する朝廷の正式な役職でした。ただし座主は延暦寺に常駐することが少なく、儀式のときに入山する程度です。
当初は修業を積んだ僧侶が担当していましたが、やがて皇族や摂関家、足利将軍家といった政治的な権力者や権威のあるものが担当しました。有名なところでは153世の義円が後に還俗して6代将軍足利義教となっています。
さらに織田信長の焼き討ちのときの座主は後奈良天皇の子・覚恕(かくじょ)。ちなみに天台座主は現在も存在しており、2020年現在では257世にあたる森川宏映氏です。
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