北海道の戦国時代を徹底解説!すべては道南十二館から始まった【ご当地戦国特集】

07/09/2021


テレビを視聴するkawauso編集長

 

YouTube動画で大好評になっている43都道府県ご当地戦国特集。今回は、一見、日本の戦国時代とは縁が無さそうな北海道の戦国時代を解説します。北海道といえば信長の野望では蠣崎氏(かきざきし)が支配しているイメージがありますが果たして北海道の戦国時代には何が起きていたのでしょうか?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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北海道の奈良時代まで

 

北海道には数万年前の氷期にシベリアからマンモスやオオツノシカのような大型哺乳類を追いかけて陸橋になった宗谷海峡を人類が渡って来たとされます。その後、氷河が後退し温暖になると、今度は本州からも人間が渡来し、後期旧石器時代が始まりました。

 

北海道が縄文時代に入ると渡島半島(おしまはんとう)や函館市の女名沢遺跡(めなざわいせき)などに本州青森県つがる市から出土した亀ヶ岡式土器(かめがおかしきどき)の影響がみられるようになります。

 

縄文時代も晩期になると本州の南には多数の渡来人が進出し稲作を中心とする弥生時代に移行しますが、北海道に水稲耕作は伝播(でんぱ)せず本州の弥生時代と古墳時代に並行する形で続縄文時代に入り8世紀の奈良時代頃まで継続しました。

 

この文化、北は樺太南端、東部は国後(くなしり)択捉(えとろふ)島、南は宮城県北部から新潟県に及ぶ広範囲に亘ります。

 

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擦文文化とオホーツク文化

 

7世紀の後半に入ると、土師器(はじき)の影響を受けて北海道の縄文人は土器に縄文様(なわもんよう)を入れなくなり、代わりに木片刷毛(もくへんはけ)(こす)ったような擦文式(さつもんしき)土器が出現する擦文時代が到来します。この文化は12世紀頃まで継続し、やがて渡島(おしま)に館を構えた和人との交易が開始され、鉄器を持ち狩猟のほかに農業や漁労を営むアイヌ文化に成熟したとされます。

 

一方、3世紀から13世紀にかけて、樺太、オホーツク沿岸、千島列島に漁業と海獣狩猟を中心とするオホーツク文化を持った人々が移住しますが、アイヌ文化が成熟した事に姿を消しました。これはアイヌに追われたか、あるいはアイヌと同化したと考えられています。

 

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はじめての戦国時代

 

 

大和朝廷との関係

朝廷(天皇)

 

北海道は古くは日本書紀(にほんしょき)渡島(おしま)として登場し真偽不明ながら斉明天皇(さいめいてんのう)安倍比羅夫(あべのひらふ)に命じて蝦夷征伐(えみしせいばつ)のために1万の軍勢を派遣。比羅夫は蝦夷を下し、さらに降伏した蝦夷とともに粛慎(しゅくてん)なる異民族を討ち、捕虜を連れ帰ったそうです。

 

奈良・平安時代になるとアイヌは出羽国と交易を開始しますが、当時の住民は東北地方北部の住民と同じく蝦夷と呼ばれていて、住んでいる場所が違うだけで同一民族であったと考えられます。その中で北海道側に住んでいた人々が現在のアイヌの先祖だと考えられているようです。

 

中世に入ると北海道の住民は蝦夷(えぞ)と呼ばれ、北海道の地は蝦夷地(えぞち)蝦夷ヶ島(えぞがしま)と様々に呼ばれるようになりました。

 

古代の蝦夷は農耕も生活の柱でしたが、次第に狩猟と漁業に特化していき、鉄などを和人との交易で得るようになっていきます。14世紀以降、北海道に移住した渡党(わたりとう)と呼ばれる人々の活動が活発化しますが、この渡党から松前藩や和人地の基礎が産み出されました。

 

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和人の交易地、道南十二館

戦国時代の武家屋敷b

 

10世紀の中頃、渡島半島の日本海側ではアイヌ文化の成立の前段階である擦文時代に、擦文文化と本州土師器文化(はじきぶんか)の混合である青苗(あおなえ)文化が成立します。いわばアイヌ文化と和人文化のハイブリッドが成立した鎌倉時代末期から諸町時代中期、渡島半島に和人が大挙して移住してきました。

 

彼らは道南十二館(どうなんじゅうにだて)と呼ばれ東は函館市に所在する志苔館(しのりやかた)から西の上ノ国町の花沢館(はなざわやかた)まで渡海半島南端の海岸線に分布し津軽安東氏の支配下に置かれ、アイヌや和人との交易や領域支配の重要拠点としました。

 

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コシャマインの戦いで武田信広がアイヌを制圧

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

渡島半島(おしまはんとう)に和人が増えてくるに従い、アイヌと和人との関係が緊迫感を増していきます。アイヌには製鉄技術がなく、鉄製品を渡党(わたりとう)や道南十二館との取引か明との交易で得ていました。しかし、1449年の土木(どぼく)の変以後、明の北方民族に対する影響力が低下し、アイヌが明と直接交易する機会が激減。それにより、和人に対する鉄の依存が強まりました。

 

1456年アイヌの男性が志濃里の鍛冶屋にマキリ(小刀)を注文したところ品質と価格を巡り争いが生じ、怒った鍛冶屋がアイヌの男性を刺殺しました。この殺人事件を受け、日頃から和人への恨みを溜めていたアイヌは渡島半島東部の首領、コシャマインを中心に団結し和人に対して戦端を開きます。

 

戦いは胆振(いぶり)鵡川(おうがわ)から後志(しりべし)余市(よいち)までの広範囲で発生し、事件の現場である志濃里に結集したコシャマイン軍は小林良景の館を攻め落とし、さらに勢いに乗り、道南十二館の10館までを攻め落とす快進撃を見せました。

 

しかし、1458年、和人の武将、武田信広(たけだのぶひろ)がバラバラになっていた日本の武士をまとめて反撃に転じた事で、組織力に劣るコシャマインの軍勢は劣勢に立たされ七重浜(ななえはま)でコシャマイン父子を武田信広が射殺した事でアイヌ側は敗北しました。

 

この勝利で武田信広は渡島半島の道南十二館でも特別に強い勢力を築き、やがて蠣崎氏(かきざきし)を相続、戦国時代には安東氏(あんどうし)被官(ひかん)でしたが豊臣秀吉に臣従し安東氏の影響力から抜け出し、江戸期に入ると松前藩を起こして北海道に君臨します。

 

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松前藩の祖、武田信広とは?

仙台城

 

北海道の歴史に決定的な影響を与えた武田信広は、永享(えいきょう)3年(1431年)若狭国(わかさのくに)の守護大名、武田信賢(たけだのぶかた)の子として誕生したとされますが、どうも伝説の域を出ないようです。

 

宝徳3年(1452年)信広は、家子の佐々木三郎兵衛門尉繁綱(ささきさぶろうびょうえのいしげつな)と郎党の工藤九郎左衛門尉祐長(くどうくろうざえもんいすけなが)、他、侍3名を連れて若狭国を出奔。古河公方(こがくぼう)、足利成氏の元へ身を寄せた後で、三戸(さんのへ)南部光政(なんぶみつまさ)の下に移り陸奥国、宇曽利(うそり)に移住し南部家の領分から田名部(たなべ)蠣崎(かきざき)の知行を許され蠣崎武田氏を名乗るようになりました。

 

さらに享徳3年(1454年)生駒政季を奉じて南部大畑より蝦夷地へ渡り、上国花沢館の蠣崎季繁(かきざきすえしげ)に身を寄せ、季繁に気に入られて婿養子となり蠣崎姓に改めました。こうして1457年にコシャマインの戦いに遭遇し、蠣崎季繁配下だった信広は武士をまとめ上げてコシャマインに対して反撃に出たというわけです。

 

勝利した信広は1462年に勝山館を築城、その後もアイヌはショヤコウジ兄弟や、タナサカシ、タリコナが抵抗しますが、蠣崎氏当主は和議を装い騙し討ちにするなどして勝利。5代目当主柿崎季広が、東地のアイヌ首長のチコモタイン、西地の首長ハシタインと和睦し道南の支配権を確立しました。

 

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江戸時代の北海道

徳川家家紋

 

江戸時代に入り、蠣崎氏は松前(まつまえ)に改名、藩も松前藩となります。当時の北海道では米が収穫できないので松前藩は無高であり、経済基盤はアイヌとの交易でした。

 

安土桃山時代から江戸時代にかけて松前氏は征夷大将軍より交易独占権を認められ、立場が弱いアイヌに対して自分に有利な交易を押し付ける事になります。これを受けてアイヌでもシャクシャインの戦いやクナシリ・メナシの戦いで蜂起するものの松前藩に鎮圧されました。

 

こうしてアイヌの反乱が起こる背景には、松前藩がアイヌとの交易を大和の大商人に丸投げする請負制の弊害があります。日本の商人は前金で松前藩に大金を支払い、アイヌとの交易権を買うので、後はアイヌを酷使して少しでも自分の利益を増やそうと搾取に搾取を重ねる事なったのです。

 

軍艦(明治時代)

 

その後ロシアが南下してくると幕府は国防上の必要性から、最上徳内(もがみとくない)近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)間宮林蔵(まみやりんぞう)伊能忠敬(いのうただたか)に蝦夷地を探索させ地理的な知識を得ると1799年には東蝦夷地を1807年には西蝦夷地を松前藩から取り上げて直轄地とし統治機構として松前奉行を置きます。

 

しかし、ゴローニン事件の解決後、ロシアの南下政策が停滞したので文政4年(1821年)に全蝦夷地は松前藩に還付されました。

 

しかし、日米和親条約によって箱館が開港されると幕府は再度蝦夷地の直轄化を目論んで松前藩の12代藩主、松前崇広(まつまえたかひろ)の時代の安政2年(1855年)に乙部村以北、木古内村以東の蝦夷地を再び召し上げとなり、渡島半島南西部だけを領地とするようになります。

 

代わりに陸奥国梁川と出羽国村山郡東根(でわのくにむらやまぐんひがしね)に合わせて3万石が与えられ、出羽国村山郡花沢1万4千石が込高として預かり地とされ合計で4万石に加え別途手当金として年1万8千両が支給されますが、これはアイヌとの交易の利益よりも遥かに下回りました。その後、元治元年(1864年)松前崇広が老中に就任すると乙部から熊石まで8カ村が松前藩に戻されるものの松前藩の財政状況は苦しいまま明治維新を迎える事になります。

 

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明治維新後の北海道

幕末 大砲発射

 

松前氏は戊辰戦争(ぼしんせんそう)では東北戦争の時点では奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に参加していましたが、勤王派の正議隊が藩政を掌握して新政府軍に寝返ります。

 

明治2年6月24日、函館戦争の真っ最中に榎本武揚率いる旧幕府軍に松前城を追い出された14代藩主の松前修広は、版籍奉還を願い出て許され館藩知事に任じられ、和人地、及び蝦夷地には、大宝律令の国郡里制を踏襲し北海道11国86郡が置かれました。

 

こうして、蝦夷地は正式に北海道と呼称されるようになり、北海道開拓使(ほっかいどうかいたくし)が置かれて開拓が開始されますが、当初は開拓使管轄外の地域もあり道外の藩や士族、寺院、華族などによる幕藩体制と同様の北海道の分領支配が行われますが明治5年10月には北海道全域が開拓使の管轄に置かれます。

 

しかし、北海道開拓使も明治15年(1882年)には設置から13年で廃止され明治19年(1886年)に道内全域を管轄する北海道庁が置かれ、現在へと繋がっていきます。

 

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松前藩その後

名古屋城

 

一方、版籍奉還した松前藩は新築の館城に移り館藩(たてはん)として旧幕府軍と戦い松前城を奪還します。その後、東北戦争で勤王派と佐幕派に分かれた経緯から、館藩は旧幕府軍に協力した町人、武士90余名を逮捕し裁判の上処分、町内引き回しの上に斬首されたものは19名いたそうです。

 

館藩になってからも藩の経営は楽ではなく、江差(えさし)や松前の口番所(くちばんしょ)が廃止され、函館、寿都(すっつ)に海官所が設置されるなどしたので、関税収入に依存していた館藩の財政は深刻な打撃を受けます。

 

その後江差と松前の両海官所とも復旧したものの、激しいインフレにより財政難が解消される事は無く、オランダ商会や藩内の商人への借金と藩札の大量発行で財政不足を補い、また、政治的にも正議派と反対派の対立が尾を引くなど、明治4年7月14日に廃藩置県で館県が置かれるまで、領内の混乱は収まりませんでした。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

北海道の戦国時代は、コシャマインと蠣崎信広の戦いに始まり、その後も続いた蠣崎家当主と、アイヌの首長たちとの戦いの繰り返しでした。豊臣秀吉や徳川家康によって、アイヌ貿易の独占権を得ていた松前氏は、ずいぶんとアコギな事をしたようで、その後もシャクシャインの戦いやクナシリ・メナシの戦いが起きています。

 

ただ、松前藩の領地は広大な北海道の一部に過ぎず、本州の藩のように全域を抑えているわけではありませんでした。それだけに一度、アイヌが蜂起すると戦乱の規模が大きく、シャクシャインの戦いでは、松前藩の藩士だけではなく、江戸幕府は弘前藩や南部藩、久保田藩に動員をかけて、鉄砲射撃でシャクシャインを撃退しています。

 

そんな松前藩も北のロシアの脅威が迫ると幕府の命令で領地替えを余儀なくされ、同時にアイヌ貿易の利権を幕府に奪われ財政が火の車のままで明治維新を迎えるのですから、因果はぐるぐるまわっているという事でしょうか?

 

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激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末はじめての幕末

 

 

 

 

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