NHK大河ドラマ「どうする家康」第3話「三河平定戦」では、織田軍の攻勢に苦しめられる三河松平の軍勢に対し、駿府の氏真が援軍を送らない事態が発生していました。結局、家康は今川と手を切り、織田信長と結ぶ事を選択するのですが、どうして氏真は援軍を送らなかったのでしょうか?
長尾景虎の関東侵攻が原因
大河ドラマでは、どうして氏真があたふたしているのか説明していませんが、氏真が三河に援軍を送れなかった大きな理由は、越後の長尾景虎の関東出兵にありました。景虎は以前から後北条氏と抗争を繰り返していましたが、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた事で、甲相駿三国同盟が動揺すると踏んで関東に出兵し小田原城を包囲します。
関東の戦国大名は景虎有利と見て、続々と小田原攻めに参陣し総勢は11万人に上ったという説もあります。ここで北条氏康が頼りにしたのは三国同盟を結んでいる武田や今川氏でした。氏真も要請に応じて川越城に援軍を派遣しています。
こちらもCHECK
-
信玄が上杉謙信と戦った動機は日本海だった?
続きを見る
三河救援どころではなかった氏真
今川氏真が三河に援軍を送れなかった理由は他にもあります。桶狭間で由比正信や一宮宗是のような重臣や松井宗信や井伊直盛など有力国人が討ち死にした結果。それまで盤石に統治できていた三河と遠江の国人の中で離反の動きが広がったのです。
特に三河国人は、織田との戦いで常に先陣を強いられ人的犠牲が大きかったので、より事態は深刻でした。経験が不足していた氏真は、それらの微妙な人間関係を処理できず、新たな人質を要求したり、今川家から離反した菅沼定盈については報復として人質十数名を殺害しています。これらの処置は逆効果となり、三河衆や遠江衆の離反を決定的にしました。
氏真としては、もはや軍事力で支配地を繋ぎとめるしか手だてはなく、貴重な兵力を家康救援に差し向けるどころではなかったのです。分かって下さい!氏真も生き残るために必死だったんです。
こちらもCHECK
-
戦国時代の駿府はどんな土地?明応地震が影響で首都になれなかった?
続きを見る
それでも元康つなぎ止めに腐心する
家康に援軍を送れず、叛かれた氏真ですが、それでハイそれまでよ♪ではありません。なんとか家康を今川方に繋ぎとめようと将軍足利義輝を仲介にして和解しようとしたり、北条氏康に出てきてもらい、なんとか慰留しようとします。
大河ドラマでは武田信玄に援軍を求めて「格が違う」と書状を踏みつけにされた家康でしたが、氏真は信玄どころか足利将軍や北条氏康まで出てきてもらい家康を説得したのです。しかし、家康の決意は翻らず信長と清須同盟を結んでしまいました。氏真は、必死に頑張ったのに家康に裏切られたので、恨みをずっと持ち続け「松平蔵人逆心」「三州錯乱」と繰り返し憤りを漏らしています。
こちらもCHECK
-
中世日本はアメリカみたいな訴訟社会だった!
続きを見る
今度は信玄に狙われるウサギ、氏真
関東に攻め込んでいた長尾景虎ですが、氏康は賢明にも野戦を回避して小田原城で籠城しました。包囲は一ヶ月も続き、長引く戦に関東の戦国大名はあきれ果て、景虎に無断で陣を引き払い退却していきました。トドメに甲斐の武田信玄が再び川中島に出撃して、海津城を築いている報告が入ると景虎もたまらず包囲を解いて信濃に向かいます。
こうして後北条氏は窮地を逃れ、今川軍も帰国できますが、信玄は強い景虎と戦うよりも、ウサギ氏真をイジメて遠江と駿河を獲った方が早いと方向転換。景虎と和睦し、今川領に攻め込んできたのです。氏真にとっては、まさに踏んだり蹴ったりで今川氏の勢力は急速に東海から消えていきました。
こちらもCHECK
-
武田信玄と北条氏政、勢力拡大の共通点【ライバルの不幸は蜜の味】
続きを見る
日本史ライターkawausoの独り言
そんなわけで、今川氏真は決して意地悪して元康に援軍を出さなかったのではなく、第一には、長尾景虎の大軍に攻められた後北条氏を救うために援軍を出し、第二には、重臣と有力国人の死で、揺らいでいた三河、遠江の国人勢力を引き締める為にあっぷあっぷだったのです。もちろん、それらを含めて能力不足だと言われると言い返しようもないのですが…
今川氏の波乱万丈
-
今川氏の桶狭間までの歴史を4分で解説
続きを見る