天下人徳川家康に仕えて活躍し、江戸時代には伊賀忍者をまとめて頭領となった服部半蔵。現在では様々なメディアで伊賀忍者のボスとして有名になった服部半蔵ですが、実際の服部半蔵については、まだまだ明らかになっていない部分も多いようです。そこで今回は、史実の服部半蔵について解説します。
この記事の目次
服部半蔵の先祖はどんな人?
服部半蔵の先祖は、代々伊賀国花垣村余野に住んで、この地を支配していた土豪であるようです。戦国時代の伊賀には百地、藤林、千賀地という3つの名家がありましたが、いずれもルーツは服部であったそうです。初代服部半三保長も元々は千賀地を名乗っていましたが、狭い伊賀では立身が望めないと考えて若い頃に出奔し、姓を先祖の服部に戻したとされています。
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服部半蔵の正式名称は?
2代目服部半蔵の正式名称は服部正成です。半蔵は代々の服部家の当主が名乗る名前で個人の名前ではありません。一番有名な服部正成の通称は弥太郎、あだ名は鬼半蔵、岩見守の受領だったので、服部岩見守と呼ばれる事もあるかも知れません。
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服部半蔵には別名があるの?
2代目服部半蔵正成の別名は「鬼半蔵」です。半蔵は槍の名手で、その腕前は徳川家康に「鬼槍」と称えられるほどでした。鬼というのは強いという意味です。また、半蔵の同僚には同じく槍の名人で知られた渡辺守綱がいて、彼の通称も半蔵なので家康は「槍半蔵」とあだ名したのだそうです。
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服部半蔵のフルネームは何と言う?
服部半蔵のフルネームは服部半蔵です。ただし「半蔵」というのは通称で戦国時代の服部半三保長から幕末の服部半蔵正義まで12人が存在します。従って歴代の服部半蔵は諱で区別する事になります。歴史上もっとも有名な服部半蔵は2代目の服部半蔵正成です。
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服部半蔵は具体的に何をした?
2代目服部半蔵正成は、後世忍者の棟梁とされましたが、半蔵当人は一番槍の名誉を何度も受けた武士でした。
しかし、伊賀や甲賀の忍者を率いていた事は事実であり、家康の伊賀越えでは、伊勢を経由して三河に落ちていく家康一行を護衛したり、鉄砲隊を組織して城に入って固く守る等、合戦では地味な裏方仕事もしています。
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服部半蔵が活躍した有名な戦いは?
2代目服部半蔵正成は、16歳で三河宇土城を夜襲して戦功を立てた後、三河一向一揆では自身が一向宗で門徒あるにもかかわらず家康に味方して戦いました。その後の姉川の戦いでは姉川堤における一番槍の功名を挙げ、三方ヶ原の戦いでも大須賀康高の隊に配属され一番槍を記録します。
三方ヶ原の戦いに徳川軍は大敗し浜松城に引き籠りますが、半蔵は意気消沈する味方を鼓舞しようと1人で城外に飛び出して武田の兵と交戦し、その首を獲って城内に戻ってきたそうです。家康は正成の武勇に度々助けられ、何度も褒美として名槍を与えています。
織田信長が本能寺で明智光秀に討たれた後、半蔵は先祖が伊賀忍者である事を利用して、伊賀・甲賀の地元土豪と交渉し家康の味方につける事に成功しました。小牧・長久手の戦いでは、伊勢松ヶ島城での加勢で伊賀甲賀者100名を指揮し、鉄砲で豊臣方を撃退しています。
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服部半蔵は晩年どのように過ごした?
2代目服部半蔵正成は文禄の役に参加する為に肥前名護屋に鉄砲奉行として出陣したのを最後に隠居します。晩年は赤坂御門の内側に屋敷を与えられて住み、死後は江戸麹町に建立された西念寺に葬られました。
この西念寺の前身は正成が非業の最後を遂げた松平信康の菩提を弔う為に立てた安養院という庵だったそうで、家康は半蔵に庵を改築し立派にせよと、300両のお金を与えて西念寺を建立させますが、西念寺の完成は半蔵の死後の事でした。
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服部半蔵の寿命は?何歳で死んだ
2代目服部半蔵正成は、1542年に生まれ1597年に病死したので55歳で死去した事になります。当時の平均寿命は50年に満たなかったので、半蔵は長生きした部類に入ります。
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服部半蔵の最期は病死?
2代目服部半蔵正成の最後は病死で江戸麹町清水谷の西念寺に葬られました。病名は現在も不明です。しかし半蔵は伊賀忍者の一団を率いていたものの、過去の因縁から折り合いが悪く部下とトラブルを起こした末に非業の最後を迎えたとする説もあります。
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一番有名な服部半蔵は何代目?
服部半蔵は歴史上12人存在しますが、最も活躍したのが戦国時代に徳川家康に仕えた2代目の服部半蔵正成です。最近の研究では初代の服部半三保長以外の11人は忍者ではなく、忍者を従えている武将だとされています。
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服部半蔵はどこの忍者集団を率いた?
初代の服部半三保長は伊賀出身の忍者だったそうです。そのため伊賀忍者が出身母体ですが、2代目の服部半蔵正成からは忍者ではなく槍の名手であった武将です。しかし、伊賀に縁がある事から家康の命令で、伊賀と甲賀の忍者を従えて戦いました。
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服部半蔵は誰に仕えてきたの?
初代服部半三保長は伊賀国の花垣村の出身でしたが、土地が狭く有力者がひしめく伊賀に見切りをつけて、最初は将軍足利義晴に仕えたそうです。しかし、当時、足利将軍の権力は衰退していて出世の見込みもないので東国に逃れ、三河の戦国大名、松平清康に仕えました。初代服部半三の五男か六男が二代目半蔵の服部正成で徳川家康に仕えて手柄を立て、最終的には、8000石を与えられ与力30騎に伊賀同心200名を従えるまでになりました。
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初代服部半蔵はどんな人?
初代服部半蔵は、服部半三保長と言い、伊賀国花垣村余野に済んだ有力な土豪だったそうです。戦国時代当時、伊賀には服部氏から分家した「百地」「藤林」「千賀地」という土豪がいて、服部保長は元々、千賀地保長と名乗っていました。しかし、伊賀は土地が狭く痩せていて、その狭い土地に土豪が密集している事から勢力を広げる事が難しく、保長は故郷に見切りをつけて京都に行き、将軍足利義晴に仕えました。この時、姓を服部に戻したので服部半三保長となります。
足利将軍家に仕えた保長ですが、当時の足利将軍は2つに分裂して抗争し、勢力も衰退する一方だったので失望。さらに東に移動し、当時、日の出の勢いで勢力を伸ばしていた三河の戦国大名、松平清康に仕えました。保長の死後、5男か6男の2代目服部半蔵正成が家督を継ぎ、徳川家康に仕えて手柄を立て出世していきます。
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松尾芭蕉はどこの出身?忍者なの?
江戸時代前期の俳人である松尾芭蕉には伊賀忍者ではなかったかという都市伝説があります。それによると、芭蕉の出身は服部半蔵と同じ伊賀である事、母親が忍者の流れを汲む百地氏の出身である事や、奥の細道の記録を見ると芭蕉が常人では考えられない長距離を1日で歩いたという事から、松尾芭蕉は幕府の命令を受けて陸奥の諸大名を隠密していたのだという説が出てきたのだそうです。
しかし、三重大学准教授の吉丸雄哉によると、芭蕉は父の代ですでに農民になっていて忍者ではない事、芭蕉の母も百地氏の出身ではない事を挙げ芭蕉伊賀忍者説を否定。さらに芭蕉は健脚ではあるものの、当時の男性の3割増し程度の健脚でしかなく、超人的な健脚とまでは言えないとしています。
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日本史ライターkawausoのまとめ
服部半蔵は歴代で12人いますが、一番有名なのは徳川家康に仕えて、天下獲りを補佐した服部半蔵正成でした。伊賀忍者や甲賀忍者を使い護衛や夜襲のような裏方仕事もしていた半蔵ですが、個人としては槍の名人で武将としての活躍が多かったようです。武将としては一流の半蔵ですが、束ねている伊賀忍者とは折り合いが悪く、そのトラブルは歴代の半蔵に引き継がれていきました。
参考:服部半蔵の死因とは?実際は忍者ではない服部正成の死因に迫る
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