徳川家康の嫡男、松平信康は永禄10年(1567年)に織田信長の娘である五徳姫と結婚します。五徳姫は岡崎城に入り、岡崎殿と呼ばれるようになりました。しかし不幸にも2人の夫婦仲は次第に険悪になり、そのため信康や信康の生母、築山殿も悲劇の最期を迎える事になります。でも、どうして2人の仲が悪くなったのでしょうか?
あまりに幼すぎた
2人の夫婦仲が険悪になった理由として結婚が早すぎた可能性もあります。五徳姫が輿入れしたのは8歳の時で信康も同じ8歳でした。双方ともに幼すぎて、お互いの我が強く出過ぎた結果、成長して後、夫婦関係は悪くなったのかも知れません。
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姑の築山殿の干渉
2人の夫婦仲が悪化した原因としては、信康の生母である築山殿(瀬名)が信康に男子が生まれない事を心配して、五徳姫の許可も得ないで側室を置いた事が大きいかも知れません。五徳姫には、天正4年(1576年)に登久姫が天正5年(1577年)には熊姫が誕生しますが、どちらも女児でした。
築山殿は、信康に男児が出来ないのを心配し、元武田氏家臣の浅原昌時の娘や日向時昌の娘など、部屋子をしていた女性を側室に迎えさせたのです。子どもが出来ないならともかく、すでに女児を2人産み、まだ若い五徳姫にとって側室を置かれる事は屈辱であり、姑の築山殿への反発や、夫信康への不信が夫婦仲を冷え切らせたと考えられます。
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史実でも2人の不仲は事実
信康と五徳姫が不仲だった事は、同時代の史料、松平家忠の「家忠日記」の中に家康が信康と五徳姫の不仲を仲裁するために岡崎へ来たと取れる文献から推測できます。また、織田信長も岡崎に来たことが記され、信長が清須同盟の要である娘夫婦の仲を心配してやって来た可能性はあります。ただし、夫婦仲が悪い程度の事で、信長が家康に命じて信康と築山殿の殺害を命じるというのは、あまりに話が飛躍しすぎていて、信康と築山殿の死を全て夫婦仲の険悪さのせいにするのは無理があると言えます。
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五徳姫の密告で信康と築山殿は殺されたのか?
五徳姫は、天正7年(1579年)父の信長に、築山殿と信康の罪状を訴える十二ヶ条の訴状を書き送り、この訴状を読んだ信長は怒り、安土城に滞在していた酒井忠次を通し、家康に信康の殺害を命じたとされています。これが事実なら五徳姫は、父親の力を利用して憎い夫と姑を始末した恐ろしい嫁という事になりますが、この訴状には後世に加筆、修正が加えられた可能性があります。
近年の研究では、信長は家康に娘夫婦の不仲をなんとかせよと命じただけで、信康を殺害せよと命じたわけではなく、信康と築山殿の殺害は家康自身の決定だったとも言われています。当時、信康は父家康ばかりか舅である信長までを軽んじる発言を繰り返していたともされ、家康が自分の死後、信康が徳川の行く末を誤ると考えて処断に及んだのかも知れません。
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その後の五徳姫
信康と20歳で死別した五徳姫は近江八幡市あたりに住んで十分な生活費を支給されました。本能寺の変後は、次兄織田信雄に保護されますが、小牧・長久手の戦いの後に和睦の人質として秀吉の支配下に入り京都に在住し、天正18年(1590年)に信雄が秀吉に改易されると、母方の生駒氏の根拠地がある尾張国小折に移り住みました。
関ヶ原の戦いの後、徳川の天下が確定すると、五徳姫は家康の四男の松平忠吉から1761石の所領を与えられ京都に隠居します。五徳姫がこのように優遇されたのは熊姫が本多忠勝の嫡男、本多忠政に嫁ぎ、登久姫が関ケ原の戦いで活躍した小笠原秀政に嫁いだ事も影響しているのでしょう。五徳姫は寛永13年(1636年)に78歳の長寿で死去しました。
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日本史ライターkawausoの独り言
信康と五徳姫の夫婦仲が悪かったのは事実のようです。しかし、夫婦仲の悪さが直ちに信康と築山殿の殺害に繋がったとは言えません。どう見ても数多ある原因の1つでしかないでしょう。また、もし五徳姫が父の信長に讒言して夫の殺害を願うような悪女なら、いかに家康の孫を産んだとしても徳川の天下で厚遇される事はなかったと思います。
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