戦国時代の農民の生活について解説しましょう。戦国時代の場合、どうしても戦国大名の存在が目立ちますが、彼らを支えていたのは農民です。弱弱しいイメージの農民ですが、戦国の農民はサムライを倒すソルジャーでもありました。
では戦国時代の農民はどういう生活を行っていたのでしょうか?見ていきましょう。平常時の1日を紹介。また緊急時の農民たちの動きや現在の農家との違いを説明します。
この記事の目次
戦国時代の農民の仕事 平常時
戦国時代の農民を考える際に大事なのは、他の時代と違い、平常時とは別に緊急時があったことです。
緊急時とは、主に自分のいる土地で戦が始まるときのこと。とはいえいつも戦をしているわけではありません。基本的には自分の住んでいる場所で農作業・野良仕事を行います。
各大名・領主にとって農民が納める年貢(米)の収穫量が多ければ多いほど経済的に潤い、また更なる勢力拡大のための資金源となりました。そのため米の収穫高を上げるための方策を考えます。それは既存の田んぼを守るための工事を積極的に行いました。
信玄堤など洪水対策のための治水工事であたらしい堤を作ったり、不毛の荒れ地を新たに開墾し、農作物が作られる場所に改良する工事などを行ったりします。また大名は築城や城の補修などをするときには、農民に声をかけて手伝わせました。これらの一連の作業は主に男性の仕事です。
それでは女性は何をしていたかといえば主に織物。室町時代以降に絹の生産が盛んになり、各地で絹市が立つと、女性たちはそこで仕入れた生糸をもとに副業として織物を織っていきました。
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戦国時代の農民の仕事 緊急時
現代や江戸時代と比べて戦国時代の大きな特徴が緊急時における農民の仕事です。これは戦が始まると農民たちは足軽として大名から駆り出され、大名の元で戦いに出ます。ただし農民が足軽として前線で戦うために、最も命を奪われるリスクが高い大変な仕事。
しかし運よく敵将の首を取れば手柄となり、武士として採用されるチャンスでもあります。こうして農民だったものが運よく武将として出世する例も戦国時代にはよくありました。
その中でも最も有名なのが豊臣秀吉。彼は農民から織田信長に仕え、やがて天下人になりました。また戦いの後にも、農民たちには別のチャンスがあります。それは落ち武者狩りでした。
大きな戦が終われば負けた方の武将は再起を図るためにその場から逃亡しますが、山の中では落ち武者狩りの農民が、彼らの命を狙うためチャンスをうかがっていました。もし落ち武者を打ち取って、その首を勝利した方の武将に届ければ、思わぬ褒美・収入につながるからです。
この落ち武者狩りで命を落とした大名で有名なのが、明智光秀です。山崎の戦いで敗れた光秀は、拠点の坂本城に逃げる最中に待ち構えていた落ち武者狩りの農民たちが突き上げた竹槍が突き刺さります。深手を負った光秀はそれが原因で死亡しました。
そんな非常時に兵として戦った農民たちですが、信長の時代から徐々に足軽が専門のプロ集団となっていき、秀吉の刀狩をもってその役目が終わりました。
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平常時の農民の1日 朝の起床から午前中
それでは平常時の農民の1日を見ていきましょう。まず起床からお昼までですが、電気のなかった当時、農民の朝は日の出とともに始まりました。朝6時前後の日の出の時間に起きると、朝食を食べてすぐに仕事に出かけます。
また当時の農民には歯磨きの習慣はありません。口の中の手入れは、江戸時代に房楊枝と呼ばれるものが誕生してから庶民に広まりました。
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平常時の農民の1日 お昼から午後
お昼から午後にかけて2回目の食事をしました。当時は1日2食だったのです。農民の食事ですが、野菜のほか粟、稗といった雑穀が主食でした。米は生産しますが、これはあくまで年貢として納めるものなので、生産した農民自身が米を食べることは基本的にありません。
例外的に大唐米と呼ばれる価値の低い赤米を食べることがありました。また現在のようにに米を精米することなく、戦国時代の人は上流階級を含め、玄米のまま食べていたようです。食べ方は主に雑炊にして食べました。
食事は原則2食ですが、実は硯水という間食を摂っていました。これはおやつのようなもので、武士だけでなく農民たちも食べていたようです。うどん、そば、餅類や果物もこの中に含まれます。
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平常時の農民の1日 夜と就寝
18時前後の日の入り後に仕事が終わった農民たちは家に戻ってきます。仕事が終わってから風呂に入るという習慣はありません。ちなみに現在のお風呂は江戸時代の銭湯文化以降の話。当時は蒸し風呂としての「風呂」と「湯」が別の考えとしてあった時代です。
庶民である農民や下級の武士たちは、水で体を洗う行水や水で体の汚れを洗い流すだけでした。こうして日が暮れると家の中は暗闇に覆われます。電気もろうそくを使った灯もないので、女性の織物の仕事もこれで終わり。夜は食事もせず、後は眠るだけでした。
基本的に夜間は外出しません。これはふたつの理由がありました。ひとつは犯罪防止のために外出が制限されていたこと。もうひとつは、当時妖のような存在を深く信じられていた時代です。
夜は魑魅魍魎が出没すると思っていた農民たちは、怖くて外に出られません。そのため眠るしかありませんでした。さて眠り方ですが、ベッドはもちろんありませんが、意外にもこの時代はまだ布団がありません。戦国時代になってから、畳で寝ていた大名たちがようやく布団を使い始めたころです。
また掛け布団というのもなく、夜着と呼ばれる着物がその代わりを果たしていました。一般的な庶民・農民が布団を使うのは明治時代からです。戦国時代の農民は敷布団の代わりにむしろを敷きました。そして着ている服を上にかけて眠ります。
戦国時代の農民は江戸時代の農民より強かった
現代と比べると驚くほど悲惨な1日を過ごしていた農民ですが、それでも江戸時代の農民よりは強くチャンスがありました。当時は戦になれば大名の元で足軽として戦いに参加します。そして武士になる、出世ができるチャンス。
そして大名たちが恐れていた一揆を行うこともしばしばありました。これは本願寺傘下の一向宗の寺院からの指示により、農民兵として戦う(一向一揆)と、大名や荘園領主、あるいは高利貸しに対して行う一揆(土一揆)があります。
秀吉の刀刈りが行われるためには各農家には農作業に加えで武具を常備していました。そのためいつでも戦える体制があります。また普段から力作業をしているので、農民たちは意外に強かったと考えられ、一揆がおきた際、実際に大名側の方が敗れ去って城から逃げ出す、あるいは討ち死にすることもありました。
江戸時代に士農工商の身分制度が決まって、いくら頑張っても武士になる道が、ほぼ閉ざされていたころと比べると、戦国時代の農民には様々なチャンスがあったとも考えられます。一方で、戦になって足軽として参加すれば命の保証はありません。また激戦地が近くで行われれば、畑や家が荒らされてしまいます。
もし戦で自分たちの領主が負けてしまえば、敵方の兵が多くやってきて治安が悪くなりました。そういう意味においては、安定を求めることが困難な時代です。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
戦国時代の農民は、現在の農家と比べると明らかに劣悪な環境で、日の出とともに起きて、日の入りともに眠る生活を行っていました。頻繁に行われる戦では戦いの前面に出るリスク、死の恐怖はありましたが、運が良ければ出世の道もあります。そう考えると戦国時代のハイリスクハイリターンは、武士だけでなく農民たちにもあったことがうかがえます。
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