高坂昌信/春日虎綱は、戦国時代の甲斐武田氏の武将で武田四天王の1人です。
武田信玄と勝頼の2代の武田家当主に仕え、特に困難な撤退戦において無敵の力を見せ「逃げ弾正」の異名を取りました。長篠の戦いの後、没落していく武田氏を見限る家臣が続出する中で、昌信は勝頼を見捨てず最後まで支えるなど、非常に忠誠心が強い人物でもあります。
今回は、そんな義の武将、高坂昌信について解説しましょう。
この記事の目次
大永7年百姓の子として生まれる
高坂昌信は甲陽軍鑑の記録では、大永7年(1527年)甲斐国八代郡石和郷の百姓、春日大隅の子として産まれます。天文11年(1542年)に父の大隅が死ぬと、姉夫婦が大隅の遺産を要求。昌信は裁判を起こしますが敗訴し路頭に迷いました。
しかし、ここで縁があり、家督を相続したばかりの武田信玄の奥近習として召し抱えられる事になります。はじめては使番という伝令役でしたが、メキメキと頭角を現し天文21年(1552年)には25歳の若さで100騎を預かる足軽大将に昇格しています。
それだけ昌信が有能だった事もありますが、信玄が身分に拘らず有能な人材を登用した結果とも考えられます。
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武田の対上杉戦線の要、海津城主となる
武田信玄は山国で穀物が取れず、港を持たない甲斐を成長させる為、日本海側に直江津という良港を持つ越後を目指し、越後への通り道である信濃攻略を本格化させます。
これに合わせ天文22年(1553年)昌信は信濃佐久郡小諸城の城代となりました。その後、昌信は、後に名跡を継ぐ香坂氏をはじめとする川中島衆を率いて越後上杉氏に対する最前線にあたる海津城の守備を任されます。
この海津城は武田氏と上杉氏の抗争において最前線に位置し、第四次川中島合戦は永禄4年(1561年)8月に上杉謙信が北信濃に侵攻し、昌信が海津城に籠城した時から始まり同年9月4日の川中島の本戦に繋がっていきました。
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第四次川中島の戦いで上杉謙信を抑止する
武田信玄は、昌信より上杉謙信が妻女山に陣取ったとの報告を受け、8月24日に兵2万を率い、長野盆地南端の、妻女山とは千曲川を挟んで対峙する位置にある塩崎城に入ります。信玄は妻女山を海津城と共に包囲する布陣を敷きますが、信玄は謙信の動きを警戒し、敢えて手を出さず睨み合いが続きました。
信玄は上杉軍を挑発すべく、8月29日に川中島の八幡原を横断して海津城に入城します。
この時、謙信は信玄よりも先に、海津城を攻略して戦局を有利にする手もありましたが、敢えて動こうとしませんでした。その理由は海津城の攻略が遅れた場合、武田本隊と挟み撃ちになる事を恐れたからのようです。高坂昌信は、地味に上杉軍の行動を抑止していたわけですね。
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啄木鳥戦法で馬場信房と別働隊を率いる
武田軍が海津城に入城した後も謙信は動かず、「自領に侵攻されても動けない信玄は謙信の武勇を恐れる臆病者である」と盛んに流言を飛ばし、武田軍の士気低下を狙います。
武田軍の重臣は、長期対陣での士気低下を恐れ上杉軍と決戦して士気を鼓舞すべきと強硬に主張しました。しかし謙信の強さを知る信玄は慎重で、軍師の山本勘助と馬場信房に、上杉軍撃滅作戦のプレゼンテーションを命じます。
山本勘助と馬場信房は
「では、我が軍の兵を二手に分け、別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を麓の八幡原に追い出します。そこを八幡原に布陣したお館様の本隊が待ち伏せ、別働隊と挟撃して殲滅するプランはいかがでしょう?」と、後世啄木鳥戦法と呼ばれる作戦をプレゼンし、めでたく信玄の許可を得ました。
この時、妻女山を攻撃する別動隊の役割を担ったのが、馬場信房と高坂昌信が率いる軍勢1万2千だったのです。
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痛恨!読まれていた啄木鳥戦法
9月9日、深夜、高坂昌信・馬場信房らが率いる別働隊1万2千が妻女山に移動。一方で信玄率いる本隊八千は八幡原に鶴翼の陣を敷き、上杉本隊を待ち構えます。ところが、上杉謙信は海津城からの炊煙がいつになく多いことから、武田軍が妻女山を攻撃する事を察知、啄木鳥戦法をあっさりと見破りました。
そして、馬場信房と高坂昌信の別動隊が妻女山に向かっていたまさにその時!
上杉謙信は兵士に一切の物音を禁じ、密かに妻女山を下山し雨宮の渡しから千曲川を対岸に渡ってしまっていたのです。謙信は、甘粕景持、村上義清、高梨政頼に兵1000を与えて渡河地点に配置。妻女山がもぬけの殻である事に気づいた武田別働隊が背後を突いてくる事態に備えました。
翌10日早朝、深い霧が晴れた時、信玄率いる武田軍本隊は存在する筈がない上杉本隊が眼前にいる事に激しく動揺。信玄は啄木鳥戦法がバレた事を悟ります。
上杉謙信は「今こそ武田を全滅させる好機!」と柿崎景家を先鋒に車懸りで武田軍に襲いかかります。上杉軍先鋒の凄まじい勢いに武田軍は防戦一方。信玄の弟の武田信繁や山本勘助、諸角虎定、初鹿野忠次らが次々と討死し、武田本陣も壊滅寸前の危機的状態に陥りました。
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別働隊が執念の帰還
もぬけの殻の妻女山に登った高坂昌信と馬場信房は、謙信に出し抜かれた事を知り驚愕します。しかしここで諦めずに八幡原に大急ぎで引き返し、上杉軍の殿軍を務めていた甘粕景持隊を秒で瞬殺。午前10時には2時間遅れで八幡原に帰還しました。
短時間での執念の大返しで、上杉軍は八幡原の南と西から武田軍の挟撃を受け、優位な状態を覆されて戦死者が続出。謙信は退却を決断し犀川を渡河、善光寺に敗走しました。
啄木鳥戦法が失敗し、武田軍を窮地に追いやった高坂昌信ですが、その後執念の挽回により、武田軍を壊滅寸前から救ったのです。
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長篠敗戦と五カ条の献策
元亀3年(1573年)4月、武田信玄が死去した後も、高坂昌信は武田勝頼に海津城代として上杉謙信に対しての備えを任されます。天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いでは、上杉軍の抑えとして参戦せずに海津城を守備していましたが、嫡男の高坂昌澄が戦死しました。
長篠の敗戦は武田家没落の切っ掛けとなりますが、甲陽軍鑑によると高坂昌信は敗走して信濃に逃れた武田勝頼を信濃駒場で出迎え、勝頼にボロボロの衣服や武具をすべて着替えさせ、敗軍の見苦しさを感じさせないように配慮したと伝わります。
その上で昌信は勝頼に五カ条の献策をしたとされます。
その内容は、
- 相模国の後北条氏との連携強化
- 戦死した内藤昌秀・山県昌景・馬場信春らの子弟を奥近習衆として取り立てて家臣団を再編
- 敗戦の責任を取らせる為、戦場を離脱した一門衆穴山信君と武田信豊の切腹
このようなものでしたが、勝頼は後北条氏との同盟以外の献策は却下したそうです。勝頼は、次第に信玄時代の重鎮から離れていきますが、昌信は恨み言を言わず、見限る事もなく、武田家の武将として留まり続けました。
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上杉景勝との同盟に尽力し死去
武田勝頼の時代には織田信長の勢力の拡大が著しくなり、上杉氏も反織田の旗を鮮明にするようになります。
天正8年に宿敵の上杉謙信が死に、その後継者を巡り御館の乱がおきると昌信は武田信豊と共に上杉景勝との取次を勤め、甲越同盟の締結に尽力していますが、同盟締結を見届ける事なく、天正8年6月14日に海津城において52歳で死去したそうです。
外交交渉は息子の高坂昌元が引き継いで翌年の天正9年に甲越同盟は成立しました。
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本当の名前は春日虎綱
一般に高坂昌信の名前で知られる昌信ですが、彼が高坂昌信であったのは長くても11年前後に過ぎず、生涯の大半は春日虎綱の名乗りであったそうです。
どうして春日姓の虎綱が高坂氏を名乗ったのかというと、当時の北信濃の上杉との国境線で武田派に与していた国人が高坂(香坂)氏だけだったため、虎綱が高坂氏の養子に入る事で高坂氏の川中島地域における政治・軍事の立場を強化する狙いがあったようです。
その為、上杉氏との対立が沈静化すると、虎綱は高坂姓から春日姓に戻っていますが、川中島の戦いでの啄木鳥戦法のイメージが強いので、生涯の1/5しか名乗っていない高坂昌信の名前が定着してしまったのかも知れません。
日本史ライターkawausoの独り言
元々、国衆ではなく、百姓身分からの抜擢で重臣に昇り詰めた高坂昌信は武田宗家への忠誠心が人一倍強かったようです。他の武田四天王に比較して派手な活躍が少ない高坂昌信ですが、要所で手堅い働きを為し、武田家を最後までもり立てた名将と呼べるでしょう。
参考:Wikipedia
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