NHK大河ドラマどうする家康10話は「側室をどうする」です。相変わらず仲睦まじい家康と瀬名ですが、2人の間に続けて子供が出来ない事に姑の於大は苛立ち、家康に側室を置くように強く勧めます。それに対し瀬名も同調して、家康の側室選びを自分も手伝うと言い出し、その中から選ばれたのが不愛想で武芸の腕が立つお葉でした。今回は家康最初の側室となった西郡局について解説します。
この記事の目次
鵜殿氏の支流に仕えた加藤氏の出身
西郡局の実父は柏原城主鵜殿氏に従った加藤氏とされています。元々加藤氏は信濃国の出身で三好氏を名乗っていましたが、西郡局の父の代に三河に移って加藤氏を名乗り、柏原領内の定期市運営を担当していたようです。柏原鵜殿氏は上ノ郷城主鵜殿長持の弟の流れを汲む支流でしたが、永禄5年(1562年)に本家の上ノ郷鵜殿氏の当主、鵜殿長照が徳川家康に攻め滅ぼされます。この時、本家以外の鵜殿氏の支流は徳川家康に服従しました。
人質として家康の側室となる
その後、西郡局は柏原鵜殿長忠の娘という身分で徳川家康の側室になります。これは家康への人質の役割が大きかったのかも知れません。西郡局は永禄8年(1565年)家康の次女督姫を産みました。この督姫は最初、北条氏直に嫁ぎ、氏直の死後は池田輝政に嫁いでいます。
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築山殿が見込んだ女性?
西郡局を側室にする事は、家康の正室の築山殿が反対した様子がありません。それは恐らく鵜殿氏も築山殿の実家である関口氏と同じく、今川氏一門だったからでしょう。築山殿と家康は、家康が今川氏と断交した時に離婚した説もあり、だとすると自分の代わりに関係が近しい西郡局を家康に推挙した可能性もあります。
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史実では離婚せず江戸までついていく
ドラマでは途中で、別に好きな男が出来たとして、家康の前から姿を消すお葉ですが、実際にはその後も家康の側室であり続け、天正18年(1590年)に家康が江戸城に移るとそれに従っています。慶長11年(1606年)西郡局は伏見城にて急死。法名は蓮葉院日浄です。家康の命により池田輝政が葬式を執り行い京都本禅寺に葬られました。
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江戸に鵜殿氏の菩提寺を再建
鵜殿氏の菩提寺、長応寺は永禄5年の上ノ郷城落城の戦火で焼失していましたが西郡局は下ノ郷鵜殿氏出身の長応寺住持日翁に帰依していて、多大な寄進を行い江戸に長応寺を復興させています。
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榊原康政との奇妙な因縁
西郡局が死んだ同じ日には、幕府重鎮榊原康政が死去しました。西郡局は池田輝政の妻の母であり、榊原康政は輝政の長男の妻の父で2人とも池田氏の縁者でした。世間の人々は西郡局と榊原康政の同日の死を不思議に思ったそうです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は男前な側室、お葉(西郡局)を解説しました。家康の最初の側室という事以外は、あまり情報が多くない西郡局ですが、娘の督姫が最初は北条氏直に嫁ぎ、次は池田輝政に嫁ぐなど、徳川家の生き残りのために、大きな貢献をした女性であるようです。
ドラマでは、好きな男が出来たとして家康の下を去るお葉ですが、その相手は一体、誰なのでしょうか?気になりますね。
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