NHK大河ドラマどうする家康で暴君の片鱗を見せ始めた織田信長。
具体的には勢力が弱くて信長に逆らえない家康の首を締め上げたり、耳を噛んだり、戦場での一番手を申し付けるなど、パワハラまがいの事をしていますが、これは事実なのでしょうか?
この記事の目次
パワハラなんてヌルい世界じゃない
そもそも戦国時代は、生きるか死ぬかの緊張が1世紀以上継続した時代です。そんな時代に、自分の権力をかさに着て弱者をイジメるパワハラが通用したとは思えません。また当時の武士は、なめられたら負けの矜持を持って生きていたので、誇りを傷つけられたら、反射的に刀を抜いて、相手を斬り殺すという事もありました。
信長の小姓だった前田利家が、信長のお気に入りとして威張っていた茶坊主を斬殺して出奔したという話もあります。パワハラは相手が絶対に反撃してこない事が分っていてする。卑怯者の振る舞いなので反撃される可能性があれば割に合わないのでしないでしょう。
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むしろ信長が家康に気を遣う事も多い
部下に対してさえそうなので、家康と信長のように独立した大名の関係なら、いかに信長でも家康にパワハラなどできません。つまらない諍いなど起こして、家康が東の北条や武田とくっついてしまえば、窮地に陥るのは信長の方だからです。
むしろ家康は、敵が多い信長に対して、強気の要求に出る事もありました。三方ヶ原の戦いでは家康は信長に執拗に援軍を要求しています。要求が入れられないなら武田につく事も匂わせたそうで、包囲網に悩む信長の真理を巧みについて援軍を引き出しました。
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関係性は変化している
ただ当初、対等だった家康と信長の関係は次第に上下関係に変化してはいるようです。信長が家康へ宛てた書状は元亀4年4月6日まで対等な文面ですが、天正5年1月22日付以後は立場が下の人間に出す文面へ変化しています。
同時に、家康の信長宛の書状も時間を経るごとに上級の相手に宛てた書式になっているので、織田政権の末期には、家康といえども信長政権下の一大名として認識されていたと考えられるそうです。もっともだから、信長のパワハラが起きたというわけではありません。
信長が光秀を殴ったなどは江戸時代の創作
明智光秀と言えば、信長のパワハラの最大の被害者として現代サラリーマンに同情されたりしていますが、信長が光秀のハゲを揶揄ったり、蹴り飛ばしたり、頭を踏みつけたという話は江戸時代の創作か宣教師の伝聞情報が大半です。
江戸時代は天下泰平で身分秩序が固定された時代なので、権力をかさに着たパワハラもあったかも知れませんが、戦国時代は、合戦場で平気で相手の首を獲れる武士がゴロゴロしていた時代です。上司に一方的に殴る蹴るを受けても、黙っているとは限りません。
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パワハラなんて一種の平和ボケ
現代の平和が当たり前の安定した社会では、仕事を失いたくない。会社で波風を立てたくないという保身からパワハラを我慢する心理もうなづけます。
しかし、戦国時代の常に生きるか死ぬかの社会で生きて、困ったら腹を切ってしまうような強メンタルの人がゴロゴロしている社会でパワハラなんて成立できませんし、そんなチマチマしたイジメをしているヒマなんかないでしょう。パワハラの存在そのものが、反撃できない相手を狙った暇つぶし、一種の平和ボケなのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、信長が家康にパワハラをしたのかについて考えてみました。信長が足利将軍を擁して、諸大名に威厳を持って振る舞った事はあったでしょうが、権威をかさに来て、パワハラに転じたような事実は確認できません。パワハラのごときイジメの延長戦のような陰湿でチマチマした事を、生きるか死ぬかの現実と戦いながら生きていた信長がやっているヒマもおそらくはなかったと思われます。
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