日本史の中でもとりわけドラマチックな時代のひとつ、戦国時代。
織田信長、武田信玄、上杉謙信、その他いろいろな有名人が全国各地に現れ、それぞれが「天下を獲る」ことを目指してしのぎを削りました。
ですが、ここでひとつ、嫌らしい疑問をぶつけてみましょう。
織田信長、武田信玄、上杉謙信、その他いろいろな有名人。彼らは「天下を獲る」と言っていましたが、そもそも彼らの頭の中で、「何を達成したら天下を獲った」ことになるイメージだったのでしょうか?というのも。
戦国大名たちの「天下を獲る」という言葉を目にすれば、当然、多くの歴史ファンは「とうぜん全国制覇のことを指している」と思うことでしょうが、最近の歴史学の研究は、こういう胸アツな歴史ファンの想いに対して、実に容赦のない研究結果を突き付けてきているのです!
この記事の目次
実は「機内」のことしか見ていなかった?信長時代の「天下」
例として、柴裕之さんの『織田信長 戦国時代の「正義」を貫く』(柴裕之/平凡社)を開いてみましょう。以下のようなことが述べられています。
「戦国時代の『天下』とは、当時日本を訪れていたキリスト教イエズス会宣教師が見聞した情報をまとめた報告書によると、『五機内の五ヵ国』のこととしている」ここでいう五ヵ国は、山城・摂津・和泉・河内・大和のこと。つまり、今でいう京都府・大阪府・兵庫県・奈良県のあたりまでです。
たったこれだけ?!全国制覇のイメージからするとあまりに小さい範囲の話になりますが、もちろん、ここには理由があります。
中世日本までの常識では当然だった?「機内を制覇すれば天下統一完了でしょ」
戦国時代の背景となっている、室町時代の日本を考えてみましょう。足利将軍家というものがそもそも、京都一円での権力争いに勝って権力を確立しています。地方については、各地に今川氏にせよ大内氏にせよ、大勢力が揃っていたわけですが、彼らが領土争い等で困った時には、「京都にいる足利家に調停をお願いする」という形で、京都と地方のバランスがとれていました。
・地方の大勢力たちにとっては、困った時には相談できる権力者が京都にいてくれればよい。逆に京都の権力者から見れば、言う事さえ聞いてくれれば、地方の大勢力たちが何をしていても触れない。そんなバランスです。こう考えると、織田信長が登場する以前の、三好氏や松永氏が、まさに京都の政局しか頭になかったことも納得できます。
三好氏も松永氏も、欲しかったのは地方の諸勢力から頼られる「権威」だけ。それを機内一帯で確立してしまえばよし。それを手に入れれば、わざわざ地方の諸大名を従わせようなどとは考えませんでした。織田信長が登場する以前の、三好氏や松永氏の行動が、まさに当時の常識でいう「天下獲り」の常道だったかもしれないのです!
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機内だけで十分とすれば信玄や義元の行動原理もわかる!
武田信玄や今川義元が「京都をめざせ」と上洛にこだわったことも、このゴールイメージだったのではないでしょうか?すなわち、京都に軍隊を引き連れて入り、機内一円を占領してしまえば、それで完了というイメージです。
これならば、なるほど、今川義元が自前の軍勢を率いて京都に入ってしまえば、達成可能だったかもしれませんし、武田信玄や上杉謙信の上洛軍の規模とも話が合ってきます。
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全国の武力制圧にまで話が広がったのは織田信長から?
この常識が崩れてくるのは、足利義輝の暗殺の頃からではないでしょうか。
機内五ヵ国を占領すれば終わり、というのは、将軍家の権威があってこそです。ところが、その将軍すらあっけなく暗殺される時代がきた、となれば?機内を占領してもその意に従わない地方勢力はいくらでも出てきてしまい、権力が安定しない、という事態になってきます。
この矛盾に初めて直面したのが織田信長だったのでしょう。彼すらも最初は、「天下獲り」といえば、機内五ヵ国の制圧で完了と考えていたようなフシがあります。ところが問題は、その足利将軍家を頂いてもまるで機能しなかったこと(これは足利義昭という人物のせいも多分にありますが)。
武田氏にせよ上杉氏にせよ、「京都に入った織田信長を潰せ」と続々と襲い掛かってきたこと。つまり全国規模で戦略を練らないと自分の身が危ない局面になったこと。更には本願寺勢力のように、武家体制とは違う大勢力が脅威になってきたこと。
この状況に対抗するため、織田信長はいわゆる軍団制を敷きます。中国地方の毛利氏には羽柴秀吉を。四国の長曾我部氏には織田信孝を。上杉氏には柴田勝家をあて、機内一円には収まらない、全国制覇事業を開始するのです。
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まとめ:我々のイメージする「天下統一」をまじめに狙っていたのは伊達政宗世代?
その織田信長が本能寺の変で倒れた後、豊臣秀吉がその事業を引き継ぎます。
秀吉こそは、信長の後を継いだ時から、明確に「天下獲りとは全国制覇のこと」というイメージを持っていたリーダーではないでしょうか。そんな秀吉によって、四国制覇、九州制覇、関東制覇が着実に進んでいきます。現代の我々がイメージする「全国統一」=「天下を獲る」は、多分に秀吉の事業があってこそではないでしょうか。
ともあれ、そうなると、秀吉よりも若い世代の戦国大名が「天下を獲る」と言っている時は、現代の我々が考える天下統一にかなり近いイメージを持っていたかもしれない、とも考えられます。
そういえば、伊達政宗が、「天下を獲るぞ」としつこく生涯繰り返していた場合の「天下」のイメージは、我々のイメージとあまり変わらないイメージのように思います。
「奥州を取った後は関東一円を獲り、その次に云々」とビッグマウスを放っていた政宗。機内一円の占領などというイメージではない規模で話をしている模様です。
戦国時代ライターYASHIROの独り言
これらもあくまで仮説ですが、秀吉が全国制覇を成し遂げた後に出てきた世代が、初めてまじめに「夢は全国制覇」と言い出した世代と考えると、政宗の大風呂敷の見方もまた変わってきて、戦国大名を見る目もまた面白いのではないでしょうか?
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