戦国一の成り上がり者である豊臣秀吉は、その成り上がりの弱点として自前の家臣を持っていませんでした。秀吉の家族もあまり多くはなく、姉が1人と弟の秀長と妹の旭くらいのものでした。その中で妹の旭は兄の大出世で自らの幸福を犠牲にした悲劇の女性なのです。
この記事の目次
異父兄秀吉の出世で人生が激変
旭は1543年に竹阿弥と母なかとの間に生まれました。秀吉とは父が違う異父妹です。成長した旭は平凡な農民の所に嫁に行き、貧しくも幸せな日々を過ごしていましたが、兄の秀吉の立身出世により彼女の人生にも波風が立ち始めます。国持ち大名となった秀吉は子飼いの家臣がいないので、姉の智子の子供たちや弟の秀長を家臣団として組織していくようになりました。これにより、旭の夫も佐治日向守を名乗る武士として取り立てられます。
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小牧長久手の戦いの和睦の道具となる
本能寺の変後、明智光秀を討ち、織田家の権力を奪い取った羽柴秀吉は、それを認めずに信長の次男、織田信雄を担いだ徳川家康と小牧・長久手の戦いに突入します。兵力でも経済力でも圧倒的に優勢な秀吉ですが、1586年の天正大地震で状況が一変しました。天正大地震は特に関西における被害が甚大で、秀吉は戦争どころではなくなったのです。
そこで秀吉は家康に対して血縁を通して従属関係を築こうとします。最初に家康の次男である於義丸を自分の養子とすると、次の手として正室がいない家康に対し妹の旭を嫁がせ血縁上、家康を義理の弟にしようと考えたのです。
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夫と引き離され強引に家康に嫁がされる
秀吉は、強引に旭と佐治日向守を離婚させ、日向守には500石を慰謝料代わりに捨扶持として与えました。佐治日向守は屈辱から自害したとも頭を剃って隠居したとも言われますが真相は分かりません。こうして旭は44歳で旭姫として家康に嫁ぐ事になり、150名あまりの花嫁行列を作り、京都から浜松まで旅をし家康の正室、駿河御前になったのです。旭にとっては、目出度くもなんともない兄の野望の道具としての輿入れでした。
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人生を犠牲にし徳川と豊臣の和睦に貢献
旭姫を迎え入れた家康ですが、まだ用心して上洛しませんでした。そこで秀吉は実母の大政所を旭姫に会いに行かせるという名目で浜松に送り込みます。ここまでされては、家康もこれ以上上洛を断る事が出来ず、ついに上洛、徳川と豊臣の戦いは終戦を迎えたのです。旭姫が自ら望んだわけではありませんが、結果として彼女が犠牲になる事で小牧・長久手の戦い以来の豊臣と徳川の戦争を終わらせたという事になるかも知れません。
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朝日姫は病気がちとなり1590年に死去
しかし、旭姫と家康の結婚生活は4年しかありませんでした。晩年の旭姫は病気がちで、死期を悟ったのか臨済宗に帰依していたと言います。その後も大政所の病気見舞い等で、上洛していた旭姫ですが1590年、小田原討伐の直前に病死しました。本当のところは不明ですが、最愛の夫と強引に離婚させられ、勝手も分からない東国に嫁に出された事で、旭姫が心身にダメージを受けた事は否定できないのではないでしょうか?
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日本史ライターkawausoの独り言
旭姫の兄が秀吉でなければ、彼女は平凡な農民の嫁として穏やかな生活を送っていたのかも知れません。上昇志向の塊だった秀吉と違い、特に野心も持たない彼女にとって立身出世は、ただの有難迷惑だったかも知れませんね。
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