小西行長は豊臣政権で重きをなした経済官僚です。経済に明るく水軍を率いて秀吉の全国統一に多大な貢献をしましたが、朝鮮出兵では早期の講和を模索し、秀吉を騙してまで戦争を終わらせようとするなど危険な橋を渡っています。それはどうしてなのでしょうか?
この記事の目次
宇喜多直家の家臣から秀吉の臣へ
小西行長は1558年泉州堺の商人である小西隆佐の次男として誕生しました。当初は呉服商をしていましたが、商売のために度々宇喜多直家の下を訪れ、直家に才能を見出されて宇喜多氏の家臣となります。その後、羽柴秀吉が三木城攻めをしている時、直家の命令で使者として秀吉の下に赴き秀吉にも才知を気に入られ、その配下になりました。
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水軍を率いて紀州攻めで活躍し1万石の大名になる
秀吉が本能寺の変後に勢力を伸ばすと行長は舟奉行に任命され豊臣の水軍を率いる事になりました。紀州攻めでは水軍を率いて奮戦し、雑賀衆には敗退したものの太田城攻めでは安宅船や大砲まで動員して攻撃、開城の切っ掛けを造っています。こうして1585年には小豆島で1万石を与えられて大名となりました。
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キリシタン大名として天草をカトリックの天地とする
行長は高山右近の熱心な勧めもあり洗礼を受けてキリシタンとなりアゴスチイノの洗礼名を受けます。領地である小豆島に宣教師のグレゴリオ・デ・セスペデスを招いて布教し、島の田畑の開発を積極的に行ったようです。その後も行長は秀吉の九州平定や肥後国人一揆の討伐に功績を挙げ、肥後半国20万石の大名に昇格しました。行長は本拠地の宇土城建築に従わなかった天草五人衆と戦い、加藤清正等とともにこれを平定。当時、天草は人口の2/3がキリシタンのキリシタン王国ですが、行長はイエズス会の活動を支援しています。ここが後に島原の乱の舞台となるのは運命的だったのかも知れません。
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文禄の役では加藤清正と先陣を争う
1592年、豊臣秀吉は明国征服の野望を持ち、李氏朝鮮に水先案内を命じます。しかし朝鮮がこれを拒否したので、西国の大名を中心に動員をかけ10万を超える大軍で朝鮮を攻めました文禄の役です。秀吉は小西行長と加藤清正の両名で先鋒を迷うほどに行長を信頼していたようです。
行長は秀吉の期待に背かず、漢城を攻略し北進して平壌まで陥落させますが、初期段階から朝鮮側に対して交渉による解決を度々呼び掛けています。もっとも一方的に攻められた朝鮮側は呼びかけを黙殺、次に明軍が李氏朝鮮の救援要請を受けて朝鮮に進軍し平壌奪回を図ります。行長は祖承訓率いる明軍を撃破すると、今度は明軍に対して講和を呼びかけました。
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明軍と共謀し秀吉を騙して講和しようとする
明軍も当初は講和に応じず、李如松率いる4万の朝鮮派遣軍で平壌を攻撃、日本軍は抗しきれずに漢城まで後退します。劣勢になった日本軍ですが進軍してきた明軍を碧蹄館の戦いで破りました。明軍は敗戦で戦意を喪失、日本軍も兵糧不足に苦しんでいたので、ようやく講和交渉が開始されます。
しかし、明軍も日本も面子にこだわりどちらも敗北した事には出来ない事情がありました。そこで行長は石田三成と共に明側の講和担当者である沈惟敬等と共謀し、秀吉には明が降伏すると嘘を言い、明には秀吉が降伏すると嘘を言わせて講和を結ぼうとします。
どうして行長は主君である秀吉を騙してでも講和を結ぼうとしたのでしょうか?もちろん、これは行長が戦争を憎む平和愛好者だからではありません。補給を熟知していた行長は朝鮮出兵にかかる費用が膨大で遠征した諸大名を苦しめており、下手をすれば豊臣政権が崩壊する事を予期していたのでしょう。秀吉から見れば裏切りに見える小細工も豊臣の将来を考えての苦肉の策だったのです。
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秀吉に小細工がバレて講和が破綻
この結果、明の使者が秀吉を日本国王に封じると記した文書と金印を携えて来日します。しかし、これは秀吉が明の臣下になる事を意味するもので、秀吉が求めた講和条件は何も反映されてはいませんでした。行長は秀吉を欺くために書を読みあげる西笑承兌に内容を誤魔化すように依頼します。ところが西笑承兌は、秀吉の怒りを恐れ書状の内容をそのまま読み上げてしまいました。てっきり明が降伏してきたと思い込んでいた秀吉は激怒し講和は破綻します。
秀吉は自分を欺いた行長を処刑しようとしますが、石田三成や淀殿、前田利家、西笑承兌がこぞって秀吉を諫めたので助命されます。秀吉は二度目の朝鮮出兵を計画し、行長に対して汚名を返上せよと命じて再び出陣を命じます。行長は快進撃を見せますが、まだ講和に未練があったようで、明軍から講和の申し出を受けるとホイホイと出て行き、騙されて殺害されそうになっています。
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豊臣に忠義を尽くし関ケ原に散る
なんとしても朝鮮出兵を止めたいと願っていた行長ですが、それが叶う日がやってきます。1598年、豊臣秀吉が62歳で大坂城で死去したのです。帰国した行長は当初、徳川家康に接近する動きを見せます。しかし、関ケ原の戦いで石田三成に誘われると家康を裏切り西軍として従軍しました。戦いは東軍の勝利に終わり行長は伊吹山に敗走、その後関ケ原の庄屋に匿われていましたが、庄屋に迷惑がかかると考え東軍に自首し斬首されました。
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日本史ライターkawausoの独り言
小西行長は石田三成と同じで経済に通じていて、朝鮮出兵が豊臣政権の屋台骨を揺るがすと直感していた実務派でした。そのため、戦いの当初から講和を求め、秀吉を騙してでも少しでも早く戦争を終わらせ豊臣政権を建て直そうと考えていましたが、秀吉の迷妄を覚ます事は出来ず、重すぎる軍役負担で諸大名の心は豊臣から離れてゆきました。時流を読む力があった行長ですが、最後は盟友の三成に命を預け豊臣の忠臣として死んでいく道を選んだのは、秀吉を止められなかった自責の念もあったのかも知れませんね。
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