戦国時代最強の名将の呼び声が高い武将と言えば上杉謙信です。謙信は人生で七十余戦を戦い、六十一勝、二敗、八引き分けと伝わり勝率は9割以上。同時代のライバル、武田信玄や北条氏康も謙信と野戦でぶつかる事を避けたがりました。
しかし不思議ではありませんか?武装や鉄砲の比率や兵士の質で大きな違いがない戦国大名の中で、どうして上杉謙信だけが圧倒的な勝率を誇ったのでしょうか?
この記事の目次
上杉軍団を最強にしたフォーメーション
上杉謙信の強さの秘密は、個人的な武勇や信仰心の強さだけではありません。それらは副次的なものであり、謙信の軍団を決定的に強くしたのは合戦でのフォーメーションでした。
謙信は、500名ほどの精鋭を1チームとし先鋒を鉄砲隊、次鋒を弓隊、中堅を長槍隊、最後尾を騎馬隊として編制。自らが総大将としてこれを率い、戦場を動き回って敵本陣を探し、ここに奇襲を仕掛けるというやり方で勝利を得ています。
上杉謙信は戦略より戦術にこだわり、敵総大将の首を挙げれば合戦は終わると考えていたので、戦場で敵本陣を求めて移動を繰り返し、北条氏康や武田信玄にとって上杉軍団は恐怖でしかありませんでした。
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村上義清が産み出した必殺の編制
では、上杉謙信は、このフォーメーションを独自に編み出したのでしょうか?
これはどうやら違うようで謙信にフォーメーションを伝授したのは武田信玄に領地を奪われて謙信を頼った北信濃の豪族、村上義清であったようです。
村上義清は、上田原の合戦で武田晴信に追い詰められた時に、開き直って晴信の首を獲る事に特化した部隊編制をおこない、弓隊を先鋒に鉄砲隊を次鋒にし中堅に長槍隊と手槍を装備した騎兵を配置する斬新なフォーメーションを編み出し、晴信を討ち取る事は出来なかったものの、深手を負わす事には成功しました。
村上義清は上杉謙信を頼った時に、武田晴信に深手を負わせたフォーメーションを説明し謙信はこのやり方を有効と認め自軍の編制に組み込んだのです。
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大雑把だった戦国時代の指揮
しかし、鉄砲、弓隊、長槍、騎兵の組み合わせは、そこまで発明するのが難しくない感じがします。どうして上杉謙信のフォーメーションに北条氏や武田氏が追い込まれたのでしょうか?
ここには、戦国時代の指揮系統の大雑把さが関係しています。戦国時代前期の軍勢は、どんな大軍でも各地の国人勢力の寄せ集めで構成されていました。
ドラクエ4で説明すると、自分でコマンド入力できるのは主人公だけで後はAI任せで、命を大事にとか、ガンガン行こうぜとか大まかな命令が出せるだけでした。
この場合、僧侶キャラが回復系呪文を使うかどうかAI任せなので、回復が欲しい時に回復してくれずに味方が死んだり、死んだ味方を呪文で生き返らせないみたいな不具合が起きますが、これは我慢してAIが学習して賢くなるのを待つしかないですよね?
戦国時代前期も同じで、合戦が始まっても総大将は自分の部隊以外には、大まかな命令しか出せず、進撃のタイミングも退却も放任していました。
ところが謙信のフォーメーションは違います。500名は謙信の命令を受けて動くよう訓練され500名が一丸となって集中攻撃を加え、連携が緩い敵本陣を壊滅させる事が出来たのです。
ドラクエ4で言えば、味方全員に細かくコマンド指示が出来るので、AI任せに比較すると、効率的な戦い方が出来たという事でした。
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前線に出る事を好んだ謙信
特に上杉謙信は、友人だった近衛前久に「自ら太刀を抜く事も珍しからず」と評されるほどに前線に出る事を好む人物で史料で見ても、第四次川中島合戦や手取川の戦いで自ら前線に立ち、敵本陣を急襲している様子が分かります。
つまり謙信は、こういう人なのです。
「戦略なんてごちゃごちゃした事に興味はない。眼前の敵将首を獲れば勝ちなんじゃ」
こういう人が500名の精鋭を率いて戦場を駆け回り敵旗本を襲撃して総大将の首を挙げるというのが上杉軍の戦い方でした。武田信玄は、謙信とは正反対に囲碁のように遠巻きに布石を打って勝利を得ることを得意としていたので、将棋的に執拗に玉を狙ってくる謙信に恐怖しました。
そして、不本意ながら上杉謙信のフォーメーションを自軍に導入して襲撃に備えるようになります。もう1人の北条氏康も謙信に対抗すべく、上杉軍のフォーメーションを導入し、総大将の命令1つで細かく動かせる軍隊を編制しました。
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全国に広がる謙信のフォーメーション
村上義清が起死回生の一撃として編み出した必殺フォーメーションは上杉謙信により完成し、さらに謙信を恐れた武田や北条により関東全域に広がる事になります。
さらに、手取川の戦いで謙信の攻撃を受けた柴田勝家や滝川一益、前田利家、佐々成政、丹羽長秀のような西国の戦国武将に伝播していき、やがて備と呼ばれる戦国時代の普遍的なフォーメーションになっていきました。
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お金持ちだった事が謙信を最強にした
上杉謙信の支配する越後は、戦国時代は現在のような米どころではなかったのですが、領内には直江津、柏崎の2つの港や金山、銀山があり謙信は戦国大名としては裕福でした。
そんな謙信の直轄軍は1万人もいて経済力を背景に近隣の国人勢力を同盟者ではなく、部下として編制して直轄軍に取り込めたと考えられます。
村上義清が起死回生の手段として編み出した特別編制のフォーメーションを上杉謙信が常備軍に出来たのは、ひとえにその経済力のお陰だったと言えるかと思います。
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戦国時代ライターkawausoのまとめ
今回は上杉謙信の強さを支えた必殺のフォーメーションについて解説しました。よろしければ今回の内容についての感想をコメントして頂けると幸いです。
また、戦国時代について、ここが分からないというような事があればコメント欄で教えて下さい。
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