上杉景勝はどうして家康に叛いて西軍に味方したのか?【どうする家康】

11/11/2023


 

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上杉景勝

 

 

大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ終盤、関ケ原の戦いを迎えようとしています。関ケ原の戦いの契機は、会津で上杉景勝が軍備を整えている事に怒った家康が遠征軍を派遣した事ですが、そもそもどうして上杉景勝は家康に敵対したのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

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おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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上杉景勝が西軍に味方した理由1 深い豊臣との関係

中国大返し ver2(豊臣秀吉)

 

 

上杉家は謙信時代の天正4年、長年の宿敵だった本願寺勢力と和睦し、反織田で手を組みます。その後、謙信は急死、上杉景虎との跡目争いを勝ち抜いた景勝が上杉の当主となりますが内戦で国力は著しく低下しました。この状態で織田軍5万が越中国の上杉の城である魚津城を包囲して落城させます。もはや織田軍とぶつかる余力がない景勝は、これで最後と腹を括って突撃を決意しますが、ここで本能寺の変が勃発。戦争どころではなくなった柴田勝家の軍勢は引き上げていきました。

 

思いがけず命拾いした景勝は、山崎の合戦を制して信長の後継者となった羽柴秀吉と友好関係を結び、以後は賤ヶ岳の戦いや、小牧長久手の戦い、小田原攻め、朝鮮の役まで一貫して秀吉に従い手柄を立て引き立てられていきます。景勝にとって豊臣家は大恩がある存在で、秀吉が死んだからと言って、さっさと乗り換えられるような軽い存在ではなかったのです。

 

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上杉景勝が西軍に味方した理由2 景勝は家康監視が役割

豊臣秀吉からのオファーを拒否する佐久間盛政)

 

 

秀吉も自分に忠実に従う上杉景勝を引き立て、越後や佐渡の金銀山の支配を任せるなど優遇、1595年に会津を支配していた蒲生氏郷が病死すると、氏郷の幼い息子を別に転封して、上杉景勝に会津の支配を命じます。上杉景勝は元々の領地と併せて120万石のマンモス大名に出世するのですが、あまり喜んでばかりもいられませんでした。

 

なぜなら会津は、奥州の伊達政宗と関東の徳川家康を監視する役割を持っていたからです。上杉景勝は病死した蒲生氏郷から奥州と関東監視の役割を引き継いだわけでした。景勝が会津を領有してから数年で秀吉は病死しますが、そこから家康の越権行為は激しくなっていきます。家康を監視するように秀吉から遺言された形の景勝が易々と遺言を反故にして家康に付くのは難しかったのです。

 

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上杉景勝が西軍に味方した理由3 直江兼続と石田三成が友達だった。

直江兼続

 

上杉景勝には名臣として名高い直江兼続がいましたが、兼続は豊臣政権の五奉行筆頭である石田三成と懇意であったそうです。景勝は兼続を重く信頼していましたから、どうしても情報は石田三成サイドから家康を非難するものが多くなり、元々、家康監視の任務を担っていた景勝は家康に不信感を募らせたとも考えられます。

 

 

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上杉景勝が西軍に味方した理由4 プライドが高すぎた

徳川家康に仕える鳥居元忠

 

 

関ケ原以前、上杉景勝と同じく百万石を保有していた存在に前田利家の子である前田利長がいますが、彼は父利家の死後に、家康に謀反の嫌疑をかけられると母である芳春院を人質として送り嫌疑を解いています。利長は天下が家康に移る事を感じ取り家康の難癖を飲み込んで臣従しました。ところが景勝は領国内で城を補修したり、建築している事を家康に戦の準備だと非難されても黙殺し、謝罪しませんでした。景勝からすれば家康は自分と同じ五大老であり、そんな難癖に構っていられるかというプライドがあったのです。しかし、家康は、これで上杉を討伐できる大義名分が出来たと内心ほくそ笑んだのでした。

 

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上杉景勝が西軍に味方した理由5 頭が少し古かった

討死する坂東武士(モブ)

 

家康が京都から進軍してくると、上杉景勝は防御態勢を整えます。しかし、その途中で石田三成が挙兵して伏見城を陥落させた事が伝わると、家康は軍を反転させて西に向かいました。この時、景勝が背中を見せた徳川軍に背後から襲い掛かれば、家康はひとたまりもなく首を討たれたかも知れません。ところが景勝の行動はそうではなく、逆に家康の東軍に味方している出羽の最上義光を征伐に向かうのです。真意は謎ですが、つまり景勝の頭では、今回の戦いが徳川と豊臣の天下分け目の戦いになるとは思わず、信長が本能寺で倒れた時のように乱世が逆戻りすると考え、領地を分捕れる間に分捕っておこうと戦国大名の習性を発揮したのかも知れません。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

kawauso編集長

 

 

いかがでしたか?どうみても徳川が優勢な中で、上杉景勝が石田三成について西軍に参加した理由は、豊臣への忠誠、家康監視の役割、高いプライド、家臣の直江兼続が石田三成と親しかった等、複数あり、それらが絡み合っての判断になったと考えられます。

 

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日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
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