大河ドラマ「どうする家康」もいよいよ終盤、関ケ原の戦いを迎えようとしています。関ケ原の戦いの契機は、会津で上杉景勝が軍備を整えている事に怒った家康が遠征軍を派遣した事ですが、そもそもどうして上杉景勝は家康に敵対したのでしょうか?
この記事の目次
上杉景勝が西軍に味方した理由1 深い豊臣との関係
上杉家は謙信時代の天正4年、長年の宿敵だった本願寺勢力と和睦し、反織田で手を組みます。その後、謙信は急死、上杉景虎との跡目争いを勝ち抜いた景勝が上杉の当主となりますが内戦で国力は著しく低下しました。この状態で織田軍5万が越中国の上杉の城である魚津城を包囲して落城させます。もはや織田軍とぶつかる余力がない景勝は、これで最後と腹を括って突撃を決意しますが、ここで本能寺の変が勃発。戦争どころではなくなった柴田勝家の軍勢は引き上げていきました。
思いがけず命拾いした景勝は、山崎の合戦を制して信長の後継者となった羽柴秀吉と友好関係を結び、以後は賤ヶ岳の戦いや、小牧長久手の戦い、小田原攻め、朝鮮の役まで一貫して秀吉に従い手柄を立て引き立てられていきます。景勝にとって豊臣家は大恩がある存在で、秀吉が死んだからと言って、さっさと乗り換えられるような軽い存在ではなかったのです。
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上杉景勝が西軍に味方した理由2 景勝は家康監視が役割
秀吉も自分に忠実に従う上杉景勝を引き立て、越後や佐渡の金銀山の支配を任せるなど優遇、1595年に会津を支配していた蒲生氏郷が病死すると、氏郷の幼い息子を別に転封して、上杉景勝に会津の支配を命じます。上杉景勝は元々の領地と併せて120万石のマンモス大名に出世するのですが、あまり喜んでばかりもいられませんでした。
なぜなら会津は、奥州の伊達政宗と関東の徳川家康を監視する役割を持っていたからです。上杉景勝は病死した蒲生氏郷から奥州と関東監視の役割を引き継いだわけでした。景勝が会津を領有してから数年で秀吉は病死しますが、そこから家康の越権行為は激しくなっていきます。家康を監視するように秀吉から遺言された形の景勝が易々と遺言を反故にして家康に付くのは難しかったのです。
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上杉景勝が西軍に味方した理由3 直江兼続と石田三成が友達だった。
上杉景勝には名臣として名高い直江兼続がいましたが、兼続は豊臣政権の五奉行筆頭である石田三成と懇意であったそうです。景勝は兼続を重く信頼していましたから、どうしても情報は石田三成サイドから家康を非難するものが多くなり、元々、家康監視の任務を担っていた景勝は家康に不信感を募らせたとも考えられます。
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上杉景勝が西軍に味方した理由4 プライドが高すぎた
関ケ原以前、上杉景勝と同じく百万石を保有していた存在に前田利家の子である前田利長がいますが、彼は父利家の死後に、家康に謀反の嫌疑をかけられると母である芳春院を人質として送り嫌疑を解いています。利長は天下が家康に移る事を感じ取り家康の難癖を飲み込んで臣従しました。ところが景勝は領国内で城を補修したり、建築している事を家康に戦の準備だと非難されても黙殺し、謝罪しませんでした。景勝からすれば家康は自分と同じ五大老であり、そんな難癖に構っていられるかというプライドがあったのです。しかし、家康は、これで上杉を討伐できる大義名分が出来たと内心ほくそ笑んだのでした。
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上杉景勝が西軍に味方した理由5 頭が少し古かった
家康が京都から進軍してくると、上杉景勝は防御態勢を整えます。しかし、その途中で石田三成が挙兵して伏見城を陥落させた事が伝わると、家康は軍を反転させて西に向かいました。この時、景勝が背中を見せた徳川軍に背後から襲い掛かれば、家康はひとたまりもなく首を討たれたかも知れません。ところが景勝の行動はそうではなく、逆に家康の東軍に味方している出羽の最上義光を征伐に向かうのです。真意は謎ですが、つまり景勝の頭では、今回の戦いが徳川と豊臣の天下分け目の戦いになるとは思わず、信長が本能寺で倒れた時のように乱世が逆戻りすると考え、領地を分捕れる間に分捕っておこうと戦国大名の習性を発揮したのかも知れません。
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日本史ライターkawausoの独り言
いかがでしたか?どうみても徳川が優勢な中で、上杉景勝が石田三成について西軍に参加した理由は、豊臣への忠誠、家康監視の役割、高いプライド、家臣の直江兼続が石田三成と親しかった等、複数あり、それらが絡み合っての判断になったと考えられます。
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