1600年に起きた歴史年表としては覚えやすい関ケ原の戦い。しかし、実際には戦争が起きたのは関ケ原だけではなく、九州でも東北でも家康の東軍と三成の西軍に味方する諸大名がそれぞれの大義を掲げて戦いを繰り広げていました。特に慶長出羽合戦として知られる上杉景勝と最上義光の戦いは双方が死力を尽くした戦いとして有名です。今回は、もうひとつの関ケ原、慶長出羽合戦を解説しましょう。
この記事の目次
最上義光、徳川家康が江戸に帰還して孤立
慶長5年(1600年)6月、会津の上杉景勝征伐のため徳川家康が出陣します。こうして一時的に京都から徳川の勢力が減少した事を見て佐和山で蟄居していた石田三成や大谷吉継が、家康討伐の兵を挙げました。三成挙兵の知らせを受けた家康は、7月24日下野小山にて上杉征伐を切り上げて反転西上します。こ家康はこの時、上杉景勝を攻める為に、南部氏や秋田氏、戸沢氏、本堂氏、六郷氏・赤尾津氏・滝沢氏などを山形に集結させ、最上義光を主将とし米沢口から会津に侵入するよう命じました。しかし、奥州の大名は家康とそこまで親密ではなく、家康が江戸に引き上げると奥羽諸軍も自領に引き上げてしまいます。加えてかねてより険悪だった伊達氏と上杉氏も伊達氏が7月に攻略した白石城の返還を約束して関係が修復してしまいます。
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孤立した最上義光が必死に東北大名を引き留める
東軍の最上義光は、事態の急変に慌てます。そして、帰国する南部氏や出羽の諸大名と起請文を交わし、家康の意向に従い、東軍同士助け合う事を誓いあいますが、奥羽諸軍の指揮権を自分が持っていると解釈している義光に対し、東北の諸大名はあくまでも家康の指揮命令によってのみ戦うと考えていて、かなりの温度差がありました。
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家康が関ケ原に向かい、最上は上杉と絶縁
9月1日、西軍の織田秀信が守る岐阜城が福島正則、池田輝政軍の攻撃を受けて一日で陥落。家康も江戸より出陣して上方へ向かい、徳川秀忠および最上義光次男、最上家親も上田方面に真田を牽制すべく出陣しました。こうして上杉氏に対する家康の圧迫は消え、上杉領より北で上杉と対決姿勢を示したのは最上義光だけとなりました。義光は窮状に陥り、上杉方に嫡子を人質として送るなどの条件で山形へ出兵しないように要請します。しかし裏で義光は秋田実季と結び、上杉領庄内を挟撃しようとしていて、それを知った景勝は激怒、出羽に向かい進軍を開始します。
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上杉軍25000が出陣
慶長5年9月8日、上杉軍は直江兼続を総大将に米沢と庄内の二方面から25000の兵力で出羽に向けて進軍を開始します。米沢を出た上杉軍は萩野中山口、小滝口、大瀬口、栃窪口、掛入石仲中山口に分岐しながら進軍、総大将の兼続は萩野中山口を進みました。上杉軍に対し、最上軍の総兵力はおよそ7000人、しかも居城の山形城を中心に多くの属城にも兵力を分散していたので、山形城には4000人ほどの兵力しかありませんでした。9月12日に上杉軍本隊は畑谷城を包囲します。この城は、最上軍の白鷹方面最前線基地ですが、兵力は城主江口光清以下500人ほどでした。義光は江口に撤退を命令していましたが、江口以下、城兵は命令を無視し玉砕を覚悟で抵抗します。しかし兵力の差はいかんともし難く、畑谷城は一日で陥落、決死の抗戦で上杉軍にも1000人近い死傷者が出ました。
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植山城では里見民部により足止め
9月17日、掛入石仲中山口を進軍してきた上杉軍の別動隊、篠井康信、横田旨俊ら4000人が、羽州街道最前線、上山城に攻めかかります。植山城の守将は里見民部率いる500人でしたが里見は城門を開けて打って出ました。上杉軍はチャンスと見て城兵を殲滅するため、一斉攻撃、城門付近で戦闘が繰り広げられます。しかし、これは里見民部の罠で、上杉軍の背後から迂回して戻ってきた最上軍別動隊が襲いかかりました。背後を襲われた上杉軍は大混乱に陥り、大将の本村親盛が討ち取られ将兵の多くを失いました。この上山城攻めの苦戦のため、掛入石仲中山口からの上杉軍は長谷堂城の戦いで本隊の直江兼続隊に合流できませんでした。
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庄内飽海でも上杉軍が進撃
一方、庄内飽海方面では、朝日山城に復帰した池田盛周等が最上方の支援を受けて、一揆を起こし、酒田東禅寺城主志駄義秀と対決したものの、上杉軍の前に一揆勢は敗退。志駄義秀は最上川を遡り、下秀久は六十里越を通り、村山郡の最上川西岸地域に侵入します。こうして、9月18日までに寒河江城、白岩城、谷地城、長崎城、山野辺城などが落城します。また直江兼続本隊から分離した別動隊が白鷹方面から五百川渓谷沿いに進軍して、八沼城や鳥屋ヵ森城などを落とし左沢まで進出して山野辺で本隊と合流しました。
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小野寺軍を湯沢城の楯岡満茂が撃退
地の利を生かして善戦する最上軍ですが、日数が進むと数の不利で次第に追い込まれていきます。さらに最上義光と対立していた小野寺義道も、景勝に呼応して最上氏の属城、湯沢城を包囲攻撃します。しかし、ここでは守将の楯岡満茂が善戦、小野寺軍の侵攻は遅滞し上杉軍との連携まではいきませんでした。
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長谷堂城の戦い
直江兼続は畑谷城を落とすと、長谷堂城近くの菅沢山に陣を敷いて長谷堂城を包囲します。長谷堂城とは、山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置し、最上氏の居城、山形城からは南西約8キロあたりにあり、山形城防衛の最も重要な支城でした。また、この段階で、最上川西岸地域および須川西岸で唯一残る、最上氏側の拠点でした。ここで、長谷堂城を落せば、上杉軍は後顧の憂いが消え、須川を挟んだ攻防を経て山形城攻城戦に取りかかることが出来るのです。
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名将志村光安に翻弄される直江兼続
9月15日最上義光は嫡男最上義康を、当時北目城にいた伊達政宗に派遣し援軍を依頼します。政宗の重臣片倉景綱は、両家を争わせ疲弊させるべきであると諌めますが、政宗は「一つは家康のため、一つは山形城にいる母上のために最上を見捨てるわけにはいかない」として、叔父留守政景を救援に派遣することを決定します。長谷堂城には、最上氏の重臣、志村光安以下1000人が守備。一方で攻め手の上杉軍1万8000人でした。通常、攻城戦に必要な兵力は守備側の3倍とされていますが、上杉軍は長谷堂城守備軍の18倍で、陥落は時間の問題に見えました。
ところが志村は寡兵ながらも防戦、9月16日には200名の決死隊で上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛けます。寡兵の長谷堂城側が攻めてくるとは考えていなかったのか上杉勢は同士討ちを起こすほどの大混乱になり、志村は兼続のいる本陣近くまで肉薄し250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げます。9月17日、兼続は春日元忠に命じ城に猛攻撃を仕掛けます。しかし、長谷堂城周囲は深田であり、人も馬も足をとられ迅速に行動ができません。そこへ城内から鉄砲の一斉射撃が繰り返されるので、上杉軍の死傷者は日を追って増大していきました。
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関ケ原で西軍敗北の知らせが飛び込む
9月24日、伊達政宗が派遣した留守政景3千の軍勢が白石から笹谷峠を越えて直江兼続本陣から約2km北東の須川河岸の沼木に布陣します。最上義光も9月25日に山形城を出陣し、稲荷塚に布陣しました。次第に不利になってきた上杉軍は、9月29日、城に総攻撃を敢行します。それでも志村光安は善戦し、上杉軍の上泉泰綱を討ち取る戦果を挙げました。そして無情にも9月29日、関ヶ原において西軍が東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされます。絶望した兼続は責任を取って自害しようとしますが、前田利益が「ここでお前が腹を切ってなんになる?」と諫めて兼続は撤退を決断します。
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上杉軍決死の退却戦で米沢に帰還
翌日、最上勢も関ヶ原の結果を知り長谷堂城は歓喜し攻守は逆転します。10月1日、上杉軍が撤退を開始。ここぞとばかりに最上・伊達連合軍が執拗な追撃を開始します。両軍は肉薄し、富神山の付近で陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たる凄惨な激戦となりました。直江兼続は、総大将として追撃軍を食い止めるために、自ら畑谷城に手勢と共に立てこもり、2つの鉄砲隊を交互に使いながら追撃軍を食い止めジリジリと退却。前田利益や水原親憲などの善戦もあり、上杉軍は崩れる事無く、10月4日に米沢城へ帰還します。これを境に最上勢は全戦線で反攻に転じ、上杉軍に奪われた全ての領地を取り戻しました。
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慶長出羽合戦、戦後
慶長出羽合戦は「奥羽における東西合戦」とされ、最上軍は小数で善戦したことにより、家康は功績を高く評価し、義光が切り取った庄内地方の領有権を認め、佐竹氏との領土交換で。雄勝郡、平鹿郡に替えて由利郡を与えて出羽山形藩は57万石の大藩に昇格します。一方、最上に協力した伊達政宗ですが、直江兼続が米沢へ撤退するとチャンスと見て、上杉領の伊達郡、信夫郡に進攻し福島城主本庄繁長や梁川城主須田長義と戦います。
野戦においては上杉に勝利した政宗ですが、続く福島城攻めでは固い守りに阻まれ攻略に失敗します。また、戦後、南部領で一揆を扇動したことが家康にバレ、不信を招いてしまい、「百万石のお墨付き」は反故とされ、自力で落とした白石城と刈田郡2万石を追認されただけに終わります。最上及び伊達の侵攻を食い止めた上杉景勝ですが西軍に味方した敗軍の将として、領地は大幅に削減され、120万石から米沢30万石へ転落しました。
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戦国時代ライターkawausoの独り言
今回は東北の関ケ原、慶長出羽合戦を解説しました。最初は家康が西に向い孤立した最上義光が、それでも地の利を生かして上杉軍25000の猛攻を凌ぎ、関ケ原の東軍勝利の知らせを聞くや、一転して上杉軍を攻める等、半日で終わった関ケ原の合戦よりも密度が濃い戦いが展開していた事が分かりますね。
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