石原莞爾は、帝国陸軍の鬼才と呼ばれ、柳条湖事件、満洲事変の首謀者として満洲国建国の立役者となりました。しかし、満洲事変後は中国大陸への侵攻に断固反対。大東亜戦争でもアメリカとの対立を極力回避しようとし東条英機と対立しました。
結果、戦犯訴追を免れ病死した石原莞爾ですが、彼はどういう人物だったのでしょう?
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乱暴者で利発だった少年時代の石原莞爾
石原莞爾は明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で誕生します。父親は警察官であり転勤が多かったので石原も住所を転々としますが、幼少期は乱暴な性格だったようです。しかし、一方で利発な面があり校長先生が石原に試験をやらせると一年生で一番の成績でした。
石原はガキ大将で近所の子供を集めては戦争ごっこで遊び、将来の夢は陸軍大将と豪語しましたが、体が弱くなんども体調を崩しています。石原は生涯虚弱体質で多くの病気に悩まされていました。
明治35年(1902年)庄内中学二年生途中で仙台陸軍地方幼年学校(予科)を受験して合格卒業後、陸軍中央幼年学校を経て、明治40年陸軍士官学校に入学します。しかし、ここでも区隊長への反抗や侮辱など生活態度が悪く成績の良さも素行で減点されました。
明治43年(1910年)5月、石原は士官学校を卒業。歩兵第65連隊に復帰して見習い士官教官となりますが、連隊長命令で陸軍大学校を受験。ろくろく勉強せずに試験に臨むも見事合格。大正7年に次席で卒業しドイツ留学を経験します。
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満蒙は日本の生命線として満洲事変を引き起こす
昭和3年、石原は38歳で関東軍主任参謀として運命の地満洲に赴任します。石原は当時から、満州及び蒙古を陸軍が占領する事で日本の失業対策と近代戦を戦う、鉄、石油、アルミニウムのような鉱物資源を補えると考えていました。
当時の日本は世界恐慌の煽りと金本位制への復帰で深刻な不景気であり、数百万人の失業者が出ましたが、政府は金本位制に縛られ財政出動できず国民の不満は増大。
しかも、日本の投資で発展し始めた南満州を満洲軍閥の張学良や中華民国総統蒋介石は狙い、日本と清朝との間で結ばれた条約を一方的に無視して、日本の権益を奪おうと排日政策を繰り返します。
日本政府は外務省を通して抗議しますが、蒋介石も張学良も話をはぐらかすだけで排日政策を止めようとはしませんでした。
石原は政府の弱腰に呆れ
「政治家などあてにはならん。満洲における根本的問題は中華民国が満洲を領有し、我が国の主権が満洲に及ばない点にある。それなら関東軍単独にて満洲を実効支配し中華民国の統治から切り離して日本の主権が及ぶようにすれば万事解決だ」と決断。
上司である板垣征四郎を巻き込み、板垣にさらに上司である本庄繫を説得させた上で、関東軍を動かす権限を握り、昭和6年満洲事変を引き起こします。
すでに石原は満洲全域に満洲独立の根回し工作を済ませており、たった1万数千の関東軍は23万人の張学良軍を圧倒、満洲全域を占領しました。日本政府は事変の不拡大を発表しましたが関東軍は日本政府の指示を一切無視します。
しかし、中華民国の排日政策と日本政府の弱腰に呆れていた日本人と新聞は、満洲事変を大歓迎、石原莞爾の名声は一夜にして轟く事になります。
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満洲国自立を掲げる
当初は満州を日本の支配下に組み込む事を目論んだ石原ですが、それが難しいと分ると満洲が満州族の故地である事を考え清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀を執政に迎えて満洲国を建国します。
そして満州族、日本人、中国人、朝鮮人、蒙古人の五族共和と王道楽土をスローガンに満洲を東洋のアメリカにしようと画策しました。
その中で石原は満州の日本人も日本国籍を捨てて満洲人になるべきだとしますが、政治体制はアメリカのような共和制ではなく満洲国協和会による一党独裁を確立し、関東軍からの満洲国自立を主張します。
しかし、満洲国建国後、関東軍が主導する形で華北や内蒙古を蒋介石の国民党政府から独立させて勢力圏とする工作が活発となります。石原は対ソ戦に備えて満洲での軍拡を目指していたので中国戦線の拡大で大量の人員と物資が咲かれる事に反対し不拡大方針を立てました。
1936年(昭和11年)関東軍が進めていた内蒙古の分離独立工作に対し、石原は中央の統制に復するように説得に向かいますが、現地の参謀である武藤章は「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀も哄笑し、石原は絶句したと伝えられます。
この話の真偽は不明ですが、石原の満州事変の成功が結果さえ出せば上司の命令など無視して良いという下克上の風潮に一役買ったのは事実でした。
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2・26事件を鎮圧
陸軍の下克上の風潮を生み出した石原ですが、どんな下克上でも許したのではありません。昭和11年の2・26事件の時、石原は参謀本部作戦課長でしたが東京警備司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭に立ちました。
石原は反乱軍に占拠された陸軍省に登庁、反乱軍の安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて陸軍省入り口で阻止しようとしますが石原は逆に「何が維新だ!陛下の軍隊を私物化するな。この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ参謀本部に入りました。
さらに庁内では栗原安秀中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えがちがう所もあると思うのですが昭和維新について、どんな考えをお持ちでしょうか」と尋ねられると「俺にはよくわからん。自分の考えは、軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」と言い「こんなことはすぐやめろ。やめねば討伐するぞ」と罵倒、栗原は殺害を中止しました。
その後、石原は軍人会館に戒厳司令部を設置し、東京警備司令官の香椎浩平中将が戒厳司令官、参謀本部作戦課長で大佐の石原が戒厳参謀にそれぞれ任命。2月29日午前5時までに首相官邸、陸軍省のある三宅坂、閑院宮邸附近、山王ホテル、新国会議事堂に布陣した反乱軍を三方向から包囲する態勢を固めいつでも反乱軍を鎮圧できる構えを見せます。
反乱軍も軍事衝突に備えますが、昭和天皇が反乱軍の蛮行に激怒し自分達が賊徒とされている事が伝わると、「陛下は自分達の行動を必ず褒めて下さる」と無邪気に信じていた決起将校は衝撃を受けて投降。1400名の兵士も原隊に帰還し同志討ちは回避されました。
昭和天皇は「石原という男はよく分からん、満洲事変の首謀者でありながら、2・26事件の対応は正当なものだった」と後に述べています。
石原自身も決起した青年将校には同情する面もあったようですが、部下を騙して扇動し、政府要人を暗殺して政治を混乱させ天皇を激怒させたクーデターでは筋も通らないし正当化できないと考えていたようです。
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一生の不覚 宇垣内閣倒閣
昭和12年広田内閣が総辞職、これにより次期首相には軍縮を成功させ親中・親英米派の宇垣一成大将が有力視されます。石原は宇垣内閣が満洲国そのものを無力化するのではないかと恐れ、参謀本部を中心に運動を起こし宇垣に組閣を辞退させようと画策。
しかし、宇垣は圧力に負けず組閣の大命を受けたので、石原は軍部大臣現役武官制に目をつけ、宇垣が陸軍大臣として指名した現役武官、杉山元、小磯国昭を説得して宇垣の指名を拒否するように説得し成功。陸軍大臣を出せなかった宇垣内閣は組閣できずに倒れます。
ところが、宇垣内閣流産の後に組閣された林内閣は数カ月で倒閣、次に組閣された第一次近衛内閣の時に盧溝橋事件が発生。当初は不拡大方針だった近衛内閣ですが、結局居留民保護の名目で大陸に派兵、宣戦布告もないままに中国戦線は拡大していき、中国とは事を構えないとする石原の思惑とは正反対に進んでしまいました。
後に石原は、この宇垣内閣倒閣を人生最大の間違いと大反省しますが、もはやすべてが手遅れだったのです。
東条英機との対立で予備役に飛ばされる石原莞爾
昭和12年9月、石原は再び関東軍参謀副長に任命され10月には新京に着任します。しかし、翌年の春から参謀長の東條英機と満洲国に関する戦略構想を巡って確執が深まり対立は感情面まで到達しました。
石原は軍人であると同時に思想家であり、満洲国を満洲人自らに運営させアジアの盟友としようと壮大な理想を掲げていましたが、東條は思想とは無縁の事務官僚で石原の壮大な構想を「誇大妄想家の壮大なホラ話」として切り捨てました。
こうして東條と決定的に破局した石原は生来の放言癖も爆発。東條をことあるごとに「東條上等兵」と呼んで、当人の目の前ですら罵倒。さらに「憲兵隊しか使えない女々しい奴だ」とこき下ろし続けます。
東條も石原の上官に対する無礼な物言いを看過できないと思っていたので、石原を閑職である舞鶴要塞司令官に左遷。昭和14年に第16師団長に異動した後、大東亜戦争直前の昭和16年3月には現役を退いて予備役に編入されました。以後、石原は現役に返り咲く事なく、教育や評論、執筆活動や講演に勤しむ事になります。
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世界最終戦「争論」
石原莞爾は、昭和15年9月に世界最終戦争論という本を出版しています。
この中で石原は、世界史は人間社会の諸力を総合的に活用しながら文明の発展と共に進化していると規定。
古代の戦争形態は「点」としての方陣、近世には「線」としての横隊、近代になると「面」としての散兵や縦深の体系が出現。第一次世界大戦では3次元である航空機が出現し、戦争形態は点から線を通して面、さらに「体」へと進化するとします。
そして、面の戦争形態は、航空機や大量破壊兵器による殲滅戦法により、極めて短期間で戦争は終結するとし、高度に発達した面の戦争を単独でおこなえる国は少なく、世界は①ヒトラーを中心とする欧州連合②スターリンのソビエト③天皇を盟主とするアジア連合④南北アメリカ連合国家へとブロック化するとします。
その後、足並みが揃わない欧州連合が没落、スターリンの死後にソビエトが崩壊。残った南北アメリカとアジア連合が激突し勝利した側が世界を統一すると予言しました。
これが世界最終戦争論の内容ですが、当たっていない点がある反面、航空兵器の長足の進歩や核兵器のような大量殺戮兵器の登場が一瞬で世界を破滅させる可能性に言及し的中させている面もあります。
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大東亜戦争期
大東亜戦争について石原は「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可であると説いていましたが、それが受け入れられる事はありませんでした。
それでも批判一辺倒ではなく、太平洋に広く展開した日本軍を撤退させ、サイパン、テニアン、グアムを要塞化して米軍に対抗すべきと主張したり、戦略資源地帯であるビルマ国境からシンガポール、スマトラ及び、東南アジアとの海上輸送路を確保する事により、早期決戦から持久戦に転換し不敗の態勢が可能であると見通しを出したりしています。
また、泥沼の中国戦線については、中国人への全面的な謝罪と中華民国からの即時撤兵による東亜諸国との連携を説き、中国東亜連盟の繆斌を通じて和平の道を探りますが、これは重光葵や米内光政の反対で失敗に終わりました。
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東京裁判と石原莞爾
戦後、極東国際軍事裁判において石原は戦犯指名から外れます。これは大東亜戦争開戦時の首相だった東条英機との確執が有利に働いたとする見方もありますが、実際は開廷前に検事団が石原広一郎と石原莞爾を勘違いした事が原因でした。
事態に気づいた検事が慌てて入院中の石原に面会するも、すでに石原は膀胱ガンや中耳炎などの複数の病気を患い重態で調書が作成できず、結局間違われた石原広一郎ともども被告リストから外されています。
東京裁判が開始された頃、一時病気の小康を得た石原は酒田に設置された石原の為の特設法廷に出廷。満洲事変は中国の苛烈な排日行為に対する自衛行動であり断じて侵略ではないと主張します。また判事に、この裁判は戦争犯罪をどこまで遡るのか?と質問し判事が「日清・日露戦争まで遡ると答えると、「そんなに遡るならペリーをあの世から呼んできて裁け」と回答。
それはどういう意味か?と判事が尋ねると石原は「江戸時代、日本の人口は3000万人であり、自給自足出来ていて朝鮮も満洲も不要であった。こうして日本国内で沢山だと満足している日本人を砲艦外交で強引に開国させたのはペリーである。ペリーこそが日本を帝国主義に駆り立てたのだ。ペリーをあの世から呼び出し戦犯として裁け!」と答えたのです。
石原は日本の先輩として帝国主義に邁進しアジアを侵略してきたアメリカや欧州諸国が、今になって正義顔して後輩の帝国主義国である日本だけを裁く偽善の仮面を剥いでみせたのでした。
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宗教者としての石原莞爾
石原莞爾には日蓮宗の敬虔な信者という側面もあります。
切っ掛けは、勤務した会津若松連隊において兵士に猛訓練を施し世界一の兵にしようと考えた時でした。
石原は訓練の中で「日本は軍隊が命を懸けて守るに値する国であるのか?」と疑問を感じ、宗教書を読みふけるなかで日蓮宗、そして国柱会の田中智学に出会い、日蓮主義こそが世界を救うと強く信じるようになったそうです。
田中智学の教えの中には八紘一宇があり、これは世界中の国と民族が文化と習俗を維持したまま、天皇の下に一家を為して、永久の平和を楽しむという考え方で、石原の満洲国建国、五族協和、王道楽土に大きな影響を与えました。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は帝国陸軍の鬼才、石原莞爾について解説しました。
満洲事変の首謀者として大東亜戦争への道を開いた好戦的軍人として語られがちな石原ですが、実際には日本は世界最終戦争に備えて満蒙だけで満足し中国大陸には干渉せずに提携すべきという大アジア主義者であり、アメリカとの戦争にも反対していました。
もっとも、失点がないわけではなく宇垣内閣を倒閣に追い込んだり、たとえ、やむを得ない理由があるとしても文民統制を逸脱して関東軍を操り満洲事変を起こした事は、陸軍に下克上の風潮を生み5・15事件や2・26事件に繋がりました。
ただ石原の思想は終始一貫していて戦後も責任回避に汲々とせず、東京裁判で満洲事変は自衛行動であり断じて侵略ではないと主張し連合国に毅然と立ち向かうなど骨のある人物だった事は間違いないでしょうね。
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