こちらを読んで、いや七人の侍だろうと突っ込んだ人もいるでしょう。でも、実は八人の侍であっているのです。事実は小説より奇なりで戦国時代ではありませんが、村がサムライを雇って村を守った事例が存在し、その時に雇ったサムライの数は8人でした。
映画七人の侍に先行する史実の8人の侍
映画七人の侍に先行する史実の8人の侍は、康永元年(1342年)相模国称名寺領だった因幡国智土師郷上村(現鳥取県智頭町)にて敵から村を守る為に雇った用人(用心棒)を八人の事で1人あたり米3石合計24石を支給したと金沢文庫古文書に出ているそうです。
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当時の成人男性が食べる食糧
当時の成人男性は1年間に米を1石食べるので3年分の食料という事ですね。高いか安いか分かりませんが…それで、この8人がどうなったのか?映画のように過半数が死んだのか詳しい事は分かりません。しかし、南北朝期、村を防衛するためにサムライを雇う発想はすでにあったようです。
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映画七人の侍は「日本剣豪列伝」というオムニバス形式
余談ですが映画七人の侍は「日本剣豪列伝」というオムニバス形式の映画を構想していた黒澤明が、戦国時代の浪人は全国を旅して回る武者修行でどのように食べていけたのかという疑問を持ちそれを東宝の文芸部員に調べさせたところ結果報告に来た本木荘二郎より「宿泊先の道場や寺院がない場合は、百姓に雇われて飯と宿を与えてもらう代わりに盗賊などから村を守っていた」と報告を受けた事からインスピレーションを得たそうです。
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戦国時代にも似たようなケースが実際にあった
実際に七名ではありませんが、戦国時代ど真ん中の天文元年(1532年)山城国宇治郡山科七郷が何らかの落ち度で室町幕府の討伐を受ける事になり、浪人を大勢雇い、また村の周囲に濠を備えて幕府軍を迎え撃ったと公家、山科言継の日記にあるようです。
フィクションのように見える7人の侍ですが、似たようなケースは戦国時代にはちゃんとあったのですね。
参考文献:史料で解き明かす日本史 松本一夫 他
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