五代友厚は近代大阪資本主義の父と呼ばれる経済人です。
2021年のNHK大河ドラマ青天を衝けにも登場し、東の渋沢栄一、西の五代友厚と呼ばれ日本を二分する実業家でした。NHK朝ドラでディーン・フジオカが演じて人気に火がつき、端正な顔で女性ファンに五代様と呼ばれる彼ですが、一体、どんな人物だったのでしょう?
この記事の目次
天保6年薩摩藩記録奉行五代秀尭の次男として誕生
五代友厚は天保6年(1836年)薩摩藩記録奉行で学者の五代直左衛門秀尭の次男として産まれます。子どもの頃の逸話として父を通じて島津斉彬から命じられた世界地図の複写をし、その世界地図が気に入ったので2枚複写して一枚は自分の部屋の壁に貼った話がありますが、事実は兄が模写したものだそうで誤って伝承されたようです。
しかし、五代が少年の頃から世界地図に親しむ家に生まれた事は彼の視野を広くする事に役立ちました。
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海軍伝習生に選ばれ長崎に長期滞在
五代友厚が20歳の頃、大きな転機が訪れます。当時幕府が設立した長崎海軍伝習所に薩摩藩は16名の伝習生を派遣しますが、その伝習生に五代は選ばれたのです。
海軍伝習所で航海術、測量、地理、砲術を学んだ友厚ですが、卒業後も薩摩藩の外国掛として長崎に滞在。1863年までに数隻の蒸気船をイギリスやアメリカから購入しています。
さらに五代は長崎時代に少なくとも2回、幕府の禁令を破って上海に密航し国際情勢を探る任務をこなしていました。五代の長崎滞在は10年近く、この間に武器商人のグラバー、長州の高杉晋作、桂小五郎、土佐の坂本龍馬、岩崎弥太郎と知り合い、後に実業家に転身する時の人脈を築いています。
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船を守ろうとしてイギリスの捕虜に
五代友厚が長崎で活躍していた頃、薩摩では生麦事件を契機に薩英戦争が起きていました。
生麦事件とは文久2年(1862年)上洛していた薩摩藩父、島津久光の大名行列に騎乗したイギリス人4名が割って入り、行列から離れるように警告を出した薩摩藩士の指示を聞かずに久光の駕籠に近づき無礼討ちされた事件でした。
イギリスは怒り薩摩藩に賠償金と犯人の処罰を求めますが、薩摩藩は国法を守ったのみと突っぱね賠償金も犯人の処罰にも応じません。こうしてイギリスは報復の為、鹿児島湾の奥深くに軍艦を侵入させ鹿児島城下を砲撃し応戦した薩摩藩士との間で、薩英戦争が勃発したのです。
その頃、五代は自らが購入した薩摩藩の汽船を守ろうと乗船していましたが船はイギリス軍に焼かれ沈没。五代はイギリス軍の捕虜になってしまいました。
五代は通訳の清水卯三郎の手引きで脱走して小舟で江戸に逃げますが、薩摩ではイギリスの捕虜になった五代に「男らしくなか!」と悪評が立ち、帰国したら斬られそうなので戻れず、ようやく薩摩藩士の野村盛秀のとりなしで帰国が許されます。
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薩摩遣英使節のリーダーとして渡英
しかし、イギリスの圧倒的な海軍力に接した薩摩では刀や槍の力で攘夷は出来ないと悟り、逆にイギリスに接近していきます。五代は薩摩藩の態度の変化を感じ取り、若い薩摩藩士をイギリスに留学させて最新の学問と技術を学ばせ藩の将来を担わせるべしと上申しました。
薩摩藩はこれを採用し、五代等3人を藩の正式な使節とし、15人の留学生と通訳1名の合計19人をイギリスに派遣する事を決意します。ただ、当時幕府は幕臣以外が海外に渡航する事を認めていないので、これは薩摩藩ぐるみの堂々とした密航という事になりました。
慶応元年(1865年)に渡英したサツマ・スチューデントの中には外務卿の寺島宗則、初代文部大臣、森有礼など薩摩藩ばかりか、明治新政府で活躍する人材が含まれています。
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世界最先端の織物工場を建設した理由
渡英した五代は留学生のリーダーとしてロンドン市内や近郊の工場、産業設備の視察をし武器購入や機械購入の商談をしました。この時に五代が買い付けた武器は戊辰戦争で威力を発揮する事になります。
さらに五代は武器ばかりではなく、当時世界最大の紡績機械メーカーのプラット・ブラザーズ社を訪れ紡績機械を購入するだけでなく、鹿児島での紡績工場の設計から建設、稼働後の技術指導まで合意する事に成功しました。
プラット社は慶応3年(1867年)契約に基づいて7人の技術者を鹿児島に派遣。その指導で工場建設が始まります。
残念ながら紡績工場は現存していませんが、機械配置図によると120台の英国織機が並び、それらが蒸気機関で一斉に動くという当時の世界最先端の紡績工場だったようです。
五代はイギリスの産業革命が綿織物製造の機械化から始まった事を知り、日本の産業も生糸の輸出から始まると見て、大きな工場をイギリスから導入したのでした。そして、五代の読み通り明治政府は、生糸の輸出を主力産業として富国強兵を始める事になったのです。
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明治維新後 役人へ
明治維新後、五代は新政府参与という幹部の役職につき、外国事務掛という外務次官クラスの仕事を任されます。当時の西洋人には日本人をバカにしている者も多く、五代に対して法律が厳しすぎると文句をつけ罪を免れようとするものもいました。
しかし、西洋人相手の交渉で鍛えられている五代は、不正には一歩も引かぬ態度を取り、違反は違反として厳しく取り締まったので、次第に法律違反をして居直る西洋人は少なくなったようです。
明治維新当時、外交の仕事は大坂や神戸が中心だったので五代は大阪府判事に任命され、さらに初代大阪税関長に就任し、外務次官と大阪府知事と税関長の3足の草鞋を履く生活を送りました。
五代が大阪府判事になった頃、大阪は斜陽を迎えていました。政治の中心が東京に移動した事で、各藩の大阪蔵屋敷が大阪から関東へと移転し政治の混乱もあり、古い大阪の経済機構では順応が難しくなっていたのです。
五代は地盤沈下した大阪の立て直しに本腰を入れますが、大阪府判事になって1年あまりで五代は転任が決まりました。これに対し、大阪では五代の大阪府判事留任嘆願書が新政府に出される程の騒ぎになり、五代は横浜に赴任して2カ月後に役人を辞め、民間の実業家として大阪に戻ってくる事になります。
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大阪で金銀分析所と造幣寮の建設に尽力
実業家になった五代は大阪に舞い戻り3カ月で金銀分析所を設立します。当時の大阪では維新前に幕府や各藩が製造した貨幣が流通して品質もバラバラで乱造され低品質の貨幣も多く経済の停滞の原因になっていました。
そこで五代はヨーロッパの冶金技術を使い貨幣の成分を分析し不純物が多い貨幣は溶かして地金にしました。さらに大阪に造幣寮(造幣局)を設けるように政府に要請、これが実現すると香港からイギリス製の貨幣製造機一式を購入します。
金銀分析所で地金にした金属で質が高く均一な貨幣を量産して貨幣流通量を増やして取引を迅速化したのです。造幣寮への地金の納入で大きな利益を得た五代は、資金と金銀分析技術を活用し鉱山経営に乗り出します。
短期間で全国各地の鉱山を買収・開発した五代は数年で日本最大の鉱山王になりました。五代のビジネスはさらに拡大し、活版印刷や製藍造、製銅、貿易会社、銀行と多くの事業を立ち上げます。
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大阪株式取引所や大阪商法会議所を設立
五代は明治初年に大阪の米や金の取引所が廃止された事が大阪衰退の原因と考え、大阪の商人と協力して米市場の再興を図ります。同時に資金調達を円滑にするために、明治11年(1878年)には、大阪株式取引所を設立しました。
これは、明治政府が株式取引所設立の方針である事を受けて、大阪の豪商などに呼び掛けて設立したものでした。
同年には大阪の商人や実業家が助け合い知恵と力を結集する名目で大阪商法会議所を設立。また、明治13年(1880年)には、商業や簿記、英語を教える大阪商業講習所を設立し、大阪商人の人材育成に貢献します。
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疑獄 開拓使官有物払下げ事件
順調に実業界で成長していた五代友厚ですが明治14年(1881年)に開拓使官有物払い下げ事件に巻き込まれる事になります。
当時北海道は北のロシアへ抵抗するために、北方開拓使を置き、明治4年(1871年)10年間で1000万両という大規模予算計画で開発を続けていました。
北海道開拓長官は黒田清隆で、お雇い外国人を招いて助言と技術の習得をし潤沢な予算を使い様々な開拓事業を推進しますが、10年計画の満期が近づいた1881年に開拓使を廃止。
黒田は部下である官吏を退職させて北海社という企業を興し、官有の施設と設備を払い下げるとします。払い下げの対象は船舶や倉庫、農園、炭鉱、ビール・砂糖工場など1400万円分ですが、払い下げ金額は3%強の39万円という超低額。それも30年無利息払い下げという大バーゲンでした。
しかし、発足したばかりの北海社には資本がないので、五代の関西貿易商会が払い下げを受ける事になったのです。
ところが税金で建設した設備を僅か39万円で、同じ薩摩閥に払い下げるという税金の私物化に前大蔵卿の大隈重信が猛反対、新聞にも事件の詳細がリークされ国民の税金を藩閥に無料同然で利用させるとは言語道断と大騒ぎになりました。
五代も黒田清隆と同じ薩摩閥と言う事で槍玉に上がりますが、実際には関西貿易商社が払い下げ受けるのは岩内炭鉱と厚岸の山林の2件だけだったそうです。当時、五代は弁明していますが、政府要人の要請で弁明を公にする事を禁じられました。
こうして五代は黙して語らないまま醜聞は広がっていき藩閥の縁故で美味しい思いをした政商というイメージがついて回る事になります。
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運輸業に乗り出すが49歳で死去
五代は海運業に進出し共同運輸会社、神戸桟橋会社、大阪商船のような海運業の設立に関与共同運輸については、三菱汽船と激しく抗争していた時期に合併を斡旋し明治18年(1885年)日本郵船を発足させました。
次に五代は陸上運輸にも進出し、大阪と難波と堺を結ぶ阪堺鉄道を設立。明治18年12月に開業し、実質的には日本で初の私鉄になります。しかし、五代は同年病気に倒れ9月に49歳で亡くなりました。
政商とも呼ばれ、政界人脈と癒着したとされる五代ですが、死んだ時には財産よりも借金が多く、それも100億円から200億円にも上るそうです。こうしてみると五代は政商の噂によらず、私利私欲で実業を興した人ではないのかも知れません。
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渋沢栄一と同じく合力を重視した五代
五代友厚と渋沢栄一には、共通点もあります。それは、事業を1人で興して独占するのではなく、資力と志がある出資者を募った事です。五代の事業は、ほとんど共同出資であり、だからこそ短期間で多くの事業を興す事が可能だったのです。
これを五代は商社合力と呼び、渋沢の合本主義と似た考え方で株式会社の仕組みに則ったものだったのです。
しかし、渋沢栄一は開拓使官有物払い下げ事件の影響か、五代友厚を佞人(私心が強い人)と評していてあまり褒めていません。五代のどの辺りが佞なのか、渋沢は具体的な事件を書いていないので明らかではありませんが、現代まで伝わらない何かがあったのでしょうか?
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日本史ライターkawausoの独り言
五代友厚は志士としても、明治以降の実業家としても功績を残した大人物です。その視線は幅広く混迷を極める政局の中でも、来るべき日本の将来を見据えていた偉人と言えるでしょう。
青天を衝けでは、どんな扱いになるか不明ですが、岩崎弥太郎と渋沢栄一のバトルである共同運輸と三菱汽船の熾烈な競争では仲介者として出てくるようなので、その辺りの登場があるかも知れませんね。
参考:Wikipedia
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