堀尾吉晴は木下藤吉郎時代の秀吉に仕え、山内一豊と共に手柄を立て豊臣秀次の五宿老に選ばれるまでになった股肱の臣です。しかし文句なしの手柄を立てた彼の功績の幾つかは、吉晴に仕えていた小瀬甫庵の太閤記によって盛られたものでした。
では、具体的に堀尾吉晴の手柄のどこが盛られたのかを解説してみましょう。
この記事の目次
天文12年岩倉織田氏の重臣の子として誕生
堀尾吉晴は、天文12年(1543年)に尾張上四郡を支配する守護代岩倉織田氏の重臣堀尾泰晴の子として誕生します。吉晴の父泰晴の同僚には、山内盛豊がいて共に連署した書状が残されていますが、この盛豊の子が山内一豊でした。一豊と吉晴は共に豊臣秀吉に仕え豊臣秀次の宿老となりますが、父の時代からの不思議な因縁です。
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岩倉織田氏が滅亡、秀吉の配下に
永禄2年(1559年)岩倉城の戦いで初陣を迎え一番首を獲る手柄を立てますが、その後岩倉織田氏が滅亡。父と共に浪人となりますが、その後尾張を統一した織田信長に仕官がかない、信長配下の木下藤吉郎の付属となります。以後は秀吉に従い各地を転戦し、稲葉山攻めでは稲葉山城に通じる裏道の道案内をし丹波国黒江3500石を与えられました。
賤ヶ岳の戦いで重要な役割を演じる
天正10年の備中高松城攻めでは降伏した敵将清水宗治の検死役を務め、山崎の戦いでは秀吉の命令で掘秀政や中村一氏と先手の鉄砲頭として参加し、功績を挙げ丹波国氷上郡内で6284石取りに昇進します。
天正11年の賤ヶ岳の戦いでは秀吉出陣後も大垣城に残り、大垣城主氏家直昌を説得して出陣を決意させ、秀吉の後を追って出陣します。秀吉本陣の背後の安全を請け負った吉晴の功績は重大で、氏家直昌を賤ヶ岳出陣に踏み切らせた功績も大きく、この手柄で若狭国高浜に17000石、翌年には2万石に加増されます。
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豊臣秀次の宿老に抜擢
天正13年(1585年)吉晴は佐々成政討伐に従軍し、田中吉政、中村一氏。山内一豊、一柳直末らと豊臣秀次付の宿老に任命されました。これらの功績で近江国佐和山に4万石を与えられます。
吉晴は九州征伐、さらに天下統一の総仕上げである小田原征伐にも豊臣秀次の配下としって山中城攻めに参加。嫡子堀尾金助が戦死する不幸がありましたが、功績を認められて遠江国浜松城主12万石へ封じられ豊臣姓を許されます。
この時期、吉晴は豊臣秀次から独立した立場になったので秀次事件には連座していません。非常に運が良い人物と言えます。
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秀吉死後は家康に接近
秀吉死後は徳川家康に接近し、石田三成や前田利家などの反家康派との調整と周旋役を務め、老齢を理由に慶長4年(1599年)家督を次男の忠氏に譲って隠居。その際に隠居料として越前府中に5万石を隠居料として与えられました。
関ケ原の戦いでは当然、東軍に与し、家康が会津征伐に赴く際にも浜松において忠氏と共に歓待し家康に従軍を求めます。しかし、家康は従軍するのは忠氏のみで良いとし吉晴は越前への帰国を命じられました。
越前に帰る途中、吉晴は三河刈谷城主水野忠重、美濃加賀野井城主加賀井重望らと三河国池鯉鮒において宴会をしていましたが、この席で水野重望が加賀井忠重を殺害。
吉晴も17か所の槍傷を負いますが、さすがは歴戦の強者で水野重望を打ち果たしています。生き残った吉晴ですが重傷のために吉晴は関ケ原合戦に参加できず越前に帰国。代わって出陣した忠氏が手柄を立て、出雲国富田24万石に加増移封されました。
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慶長16年に死去
しかし慶長9年(1604年)堀尾忠氏が若くして死去。家督は孫の忠晴が継ぎますが幼年だったので、吉晴が後見役を務めます。堀尾吉晴は慶長16年(1611年)松江城を建造し本拠を移して間もなく69歳で死去しました。
寛永10年(1633年)孫の堀尾忠晴も34歳で死去、男子が無かったので堀尾氏嫡系は3代で改易となり戦国大名の堀尾家は滅亡。ただし、堀尾一族は、松江藩、尼崎藩、熊本藩他に仕えて名跡は存続します。
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小瀬甫庵の太閤記で功績を盛られる
このように、戦国武将としても一流だった堀尾吉晴ですが彼の功績には死後にプラス補正が入ります。それが小瀬甫庵の太閤記でした。
小瀬甫庵は、尾張国春日井の出身で最初は池田恒興に医師として仕え、次には豊臣秀次に仕えた後、関ケ原の戦いの後に堀尾吉晴に仕え松江城築城の縄張りもしています。吉晴の死後には浪人になりましたが、恩義を感じていたようで太閤記で、ありもしない吉晴の手柄を付け加えているのです。
その内容は以下の通り
4月9日午前10時頃、羽柴軍の森長可・池田恒興軍と、徳川・織田連合軍、徳川家康、井伊直政、織田信雄の両軍が激突。白山林の戦いが開始された。
戦闘は2時間以上も続き、一進一退が続くが、前線で奮闘する森長可が狙撃されて討死。池田・森軍左翼が崩れ始めて徳川軍優勢になった。
池田恒興も、永井直勝の槍を受けて討死、池田元助も安藤直次に討ち取られ池田輝政だけが辛うじて戦場を離脱。合戦は徳川軍の勝利に終わり羽柴軍は2500人余りの死者を出して大敗する。
秀吉は4月9日に陽動として小牧山へ攻撃をしかけてたが、午後になり白山林の戦いの敗報が届くと2万人の軍勢を率いて戦場近くの竜泉寺に向けて急行する。
しかし、500人の本多忠勝勢に行軍を妨害され到着が遅れた。夕刻に秀吉は、家康が小幡城にいるとの報を受け翌朝の攻撃を決めた。しかし家康と信雄は夜間に小幡城を出て小牧山城に帰還。翌日この知らせを聞いた秀吉は楽田に退却した。
ここまでは史実なのですが、小瀬甫庵はここに以下の話を付け加えます。
楽田に退却する秀吉軍に家康に味方する一揆勢が弓鉄砲を放って追撃してきた。この時、秀吉軍の殿を務めた堀尾吉晴が陣所を固く守って援軍を待つべきだとする周囲の意見を退けて敢然と出撃し、散りぢりになりそうな軍勢を1つにまとめ何度も取って返して大奮闘し一揆勢を追い払う功績を挙げた。
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細川忠興の重臣 沢村吉重の反論
しかし、この小瀬甫庵の盛った堀尾吉晴の手柄話は、外ならぬ長久手の戦いに従軍した細川忠興の重臣、沢村吉重により論破されます。
この時、細川の部隊と堀尾の部隊は70~80mしか距離がなく、しかも細川家では万が一に備えて家人を堀尾部隊につけて敵襲があれば戻って報告するように命じてありました。ところが敵の迫って来るような事は無かったと沢村吉重は覚書に書いているのです。
さらに吉重は、知人にも手紙を出し「小瀬甫庵は物知らずで太閤記でウソを書いてある」と指摘しましたが、残念な事に甫庵の太閤記は大勢に読まれ、その後の軍記物や小説では、堀尾吉晴が長久手の戦いで一揆勢を撃退して秀吉を救ったと記述されるようになりました。
もう1つ、堀尾吉晴には山崎の合戦で逸早く天王山を占拠したので戦局を有利に導いたというものがありますが、これも小瀬甫庵の創作であり、山崎の合戦に天王山の戦いなどないという事です。
そんな創作がなくても、堀尾吉晴は名将ですが吉晴の知らない所で甫庵が話を盛ったせいで、どことなく信用ならないような扱いを受け損をする事になりました。
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日本史ライターkawausoの独り言
堀尾吉晴は岩倉織田氏の重臣だったので、信長の天下では余り芽が出ませんでしたが、秀吉の部下として着実に功績を積み重ね、秀吉の天下になると24万石の中堅クラスの大名になりました。
小瀬甫庵が太閤記で功績を盛らなくても、その功績は立派なものであり、山内一豊と共に、秀吉の股肱の臣を代表する人物と言えるでしょう。
参考文献:戦国武将人気の裏事情 PHP出版
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