戦国ドラマは大体、桶狭間以降の後期戦国とそれ以前の前期戦国時代に分かれます。
そして人気と知名度は後期戦国時代が圧倒的なのですが、その理由に前期戦国は、目まぐるしく支配者が交替し、登場人物が多くて覚えるのが大変という点もあります。
例えば、戦国前期の10代将軍足利義稙は、最初は足利義材として、次に足利義植として二度征夷大将軍に就任し、戦国前期の分かりにくさに拍車をかけています。今回は13年も流浪し「流れ公方」とあだ名された足利義植の生涯を解説しましょう。
この記事の目次
足利義視の子として生まれ、いきなり応仁の乱に遭遇
足利義植は文正元年(1466年)足利義視の子として誕生します。
ちなみに義植は、義材、義尹、義植と何度も改名していますが、この記事では義植で統一します。
父である足利義視は元々仏門に入っていましたが、兄で8代将軍の足利義政に男子が誕生しない事で寺から呼び戻されていました。この展開なら義政の死後に義視が9代将軍になり、足利義植が10代将軍となりそうですが、そうとはなりません。なんと、足利義政の正室の日野富子が懐妊し男子が誕生したのです。
ここから、斯波家、畠山家の後継者争いや大守護大名、山名氏と細川氏の勢力争い、そして9代将軍を誰にするかを巡り関東以西の守護大名は分裂、応仁元年(1467年)1月、東軍と西軍に分かれて応仁の乱が勃発します。
この時、義植の父の義視は足利義政と対立し9月には東軍から比叡山に出奔しついで西軍に身を投じました。まだ1歳にもならない義植は窮地に陥りますが、東軍の武田信賢が義植を守り西軍に送り届けたそうです。
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誠の武士、武田信賢にあっぱれ!
あまり有名じゃないですが、義視の子を人質に取らないで正々堂々と西軍に送り届けるあたり、武田信賢は親子の情愛を理解できる誠の武士と言えるでしょう。Kawausoは個人的にあっぱれ!をあげたいです。
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応仁の乱後、義尚の病死で10代将軍へ
文明5年(1473年)足利義政の子、足利義尚が9代将軍に就任、文明9年(1477年)11月に応仁の乱は一応終結します。
しかし、東西に分かれた全国の守護大名は容易に一枚岩にはならず、義視と義植の父子も西軍の一角だった美濃国の土岐成頼、斎藤妙椿の庇護を受け革手に屋敷を得て住みつき、大御所となった義政との間で和睦が成立しても美濃国に留まり続けました。
不遇な義植ですが、思いがけずチャンスが巡ってきます。それは9代将軍の足利義尚に子供がなかった事でした。
足利義植の生母、日野良子は日野富子と縁続きであり、富子にとって義植は甥に当たります。そこで富子は義尚に万が一の事があった場合の保険として義植を義尚の猶子(疑似子)として元服させ、同年8月には美濃国在国のまま従五位下・左馬頭に叙位されます。
そうこうしている間に、長享3年(1489年)足利義尚が六角高頼を討伐している最中に死去。義植は将軍になれるチャンスと、父義視、斎藤妙純に伴われて義尚の葬儀に参列しようとしますが、義視派の復権を恐れる細川政元が反対し失敗。やむなく葬儀が終わってから上洛します。
細川正元は次期将軍として義尚と義植の従兄弟、堀越公方、足利政知の子で出家していた香厳院清晃を押していましたが、足利義政と富子が義植を推したので擁立を断念し延徳2年(1490年)1月に義政が死ぬと義稙は10代将軍足利義材となります。
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独断専行が祟り明応の政変を招く
当初は大御所として父の足利義視が政治の実権を握りますが、義視が翌年に死去すると、前管領畠山政長と協調し独自権力の樹立に奔走。先代の義尚が失敗した六角高頼の追放に成功、さらに応仁の乱の種になっていた畠山義就が死去したのに乗じて義就の後継者の義豊を討伐します。
しかし、六角高頼討伐も畠山義豊討伐も、前管領、細川政元や日野富子の反対を押し切って開始した強引なものだったので、富子と政元との間で軋轢が強まり両者は足利義植排除で結託し、義植が河内に遠征し京都を留守にしている隙に香厳院清晃を擁立して、11代将軍足利義澄とし義植を廃するクーデターを起こしました。
これが史上有名な明応の政変です。
京都では、義植派に対する粛清が行われて騒然となり、後土御門天皇も勝手に将軍を廃位した政元に対して怒りを爆発させ清晃になかなか将軍宣下を出さないなど反発も広がります。
しかし、京都を抑えた政元と富子、それに幕府政所執事、伊勢貞宗の力は強く抑え込まれました。
細川正元はクーデターに反発する畠山政長の軍を打ち破り政長は自害に追い込まれ、義植はやむなく政元に降伏して京都に連れ戻され龍安寺に幽閉されます。この時、富子により義植に毒が盛られる事件が起きたそうです。
京都から脱出し放生津に幕府を開く
幽閉された義稙ですが、ここで自身が小豆島に流される事を知り危機感を覚え、明応2年(1493年)6月29日、側近の手引きで京都を脱出。畠山政長の領国である越中国放生津に下向。政長の家臣である神保長誠を頼り、そこに幕府を開き放生津幕府を開きました。
明応7年(1498年)9月、義植は義尹と改名し、越前国の朝倉貞景の元に移動します。
義植の行動については、神保長誠との折り合いが悪くなった説や細川正元との和睦を望んだ説、逆に足利義澄討伐の為など色々な解釈があります。
この後、義植は畠山政長の子の尚順と同調して軍事攻撃で上洛を目指し、延暦寺や根来寺、高野山の僧兵も義植に呼応して近江国まで迫りますが、かつて追放に追い込んだ六角高頼のリベンジに敗れ、河内国へ逃走。ここでも細川正元の軍に敗れ窮地に陥ります。
義植は、かつて西国の大大名、大内政弘が応仁の乱で父の義視を奉じて西軍についていたという細い縁を頼りに周防国に逃れました。
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西国大名、大内義興の助力で上洛
大内氏の庇護の下で日々を過ごしていた義植ですが、まだ天は義植を見捨ててはいませんでした。
永正4年(1507年)細川政元が後継者問題で失敗し暗殺される事件が発生。3人の養子の間で細川家が分裂する永正の錯乱が起きたのです。義植はこれをチャンスと見て、大内義興に上洛を説いて永正8年(1508年)4月、大内氏の軍勢に守られ上洛を開始。
細川家の後継者候補、細川高国がこれを迎え、中国地方や九州の諸大名とともに山口から尾道、鞆を経て海路上洛し、同年4月に堺に到着。6月には京都を占領し、管領細川澄元と足利義澄を追放、7月には将軍に復帰しました。
ちなみに1人の人物が二度将軍に就任するのは650年にも及ぶ幕府の歴史の中で足利義植のみです。
一度は追放された将軍、足利義澄と細川澄元はその後も義稙と抗争を繰り広げますが、永正8年(1511年)の船岡山合戦の直前に義澄が病死。さらに合戦そのものも義稙派が勝利したので、義植の将軍職復帰は確定しました。
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独裁傾向の義植に大内義興が反発
しかし、義植は元々独裁傾向の強い人物であり、しかも自前の権力がなく細川高国や管領代、大内義興などの軍事力に支えられたので意のままにならない事が多く、将軍復帰直後の御成り先には義興ではなく、畠山尚順の宿舎を選んでしまいます。
これに対し大内義興は猛反発!
(こんな事を言ってはなんだが…畠山殿に一体どんな功績があると言われるのか?
公方様とご一緒に敗走した事に対する功績か!それがしを蔑ろにするにも程があるッ!)
こうして、宴会の途中で抗議のために途中退席、現金な細川高国も義興に同調しました。
義植は強い将軍をみせつけようと義興に謝ろうとはしませんでしたが、周囲は義興の機嫌を取ろうと後柏原天皇に働きかけ将軍の意向に背いて義興に従三位の官位を与えました。
「しょ…将軍のわしに断りもなく官位を受けるとは、おのれ大内義興ィ!あんたなんか、あんたなんかプイ!」
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足利義植家出する!
激怒した義植ですが自前の軍勢はないので、もちろん大内氏討伐なんてできるわけもなく、考えた末に家出する事を決意。永正10年(1513年)3月、京都を飛び出して近江国甲賀に逃れた挙句、そこで無理がたたったのか重病を発症します。
これは、一時死亡説が流れるほどの重病で、東寺や伊勢神宮でも将軍平癒の祈祷がおこなわれるほどでした。この時、義植は最後の改名をし義尹から義植になっています。
義植に反発していた大内義興、畠山尚順、畠山義元、細川高国ですが、義植に死なれては困ります。
おろおろしている間に義植が回復したので、4名は連署し以後は将軍の下知に背かないと誓う起請文を出し和解が成立。
先の4人と伊勢貞睦が甲賀郡まで義植を迎えに行き、ようやく義植は京都に戻りました。なんだか微笑ましいですね
義植「もう、わしに背かないんだな?本当だな?今度背いたら、本当にあんた達なんかプイだからな!!」
家来「はいはい、もう背きませんよ。約束します」
こんな風に言いながら京都に帰る足利義植が浮かんできます。
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大内義興が帰国し細川高国とは険悪に
しかし、京都に戻っても義植が軽んじられる事態は続き、義植の拒否にもかかわらず細川高国が伊達高宗に偏諱を与えて左京大夫に任官されたりします。
その内、中国地方でも尼子経久が勢力を伸ばし大内氏を脅かすようになったので、大内義興は管領代を辞職して帰国、畠山尚順も同じ理由で帰国。残された義植と高国は対立を深めていきました。
大内氏や畠山氏の軍事力の後ろ盾が消えると追放された細川澄元が動き始めます。義植は先手を打ち、赤松義村に澄元やその家臣を成敗するように命じましたが、赤松義村は元々義澄派であり、動きは鈍いものでした。
阿波国に逃れていた細川澄元は、永正16年(1519年)10月に挙兵。11月には摂津国に上陸し、細川高国との決戦に臨みます。
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細川高国を裏切り将軍の座に残るが
永正17年(1520年)細川高国は尼崎で大敗し京都へ敗走。高国は義植に一緒に近江国へ逃げましょうと誘いますが義植は拒否しました。
実は、義植は高国を見限り、自分に恭順の意を示していた細川澄元とその重臣、三好之長を京都に引き入れていたのです。この裏切りは高国には当然ながら知らされず、1人で近江国に逃げた高国は全てを知って激怒しました。
「ああああーーー!ずるいんだァ、自分だけ澄元と内通しやがってよぉ!
もういいよ、あんたなんかプイプイのプーイ!」
復讐に燃える高国は近江国で勢力を盛り返し、等持院の戦いで細川澄元を打ち破り、再び上洛を果たします。細川澄元は阿波に逃げ帰り、京都には裏切り者の義植だけが取り残されました。
高国「公方様…澄元との京都ライフは、さぞかし楽しかった事でしょうなぁ?」
義植「あいーん!怒っちゃやーよ!高国ちゃん。
あたしは澄元に脅されて仕方なく従っただけなんだってば!
お帰り!ずっと会いたかったのよぉ」
高国「あんた、細川の家督を澄元に譲る事を約束したそうじゃないですか?
被害者ぶって調子の良い事ばかり言わんといて下さいよ先輩。
これからはあんたはお飾り、政治は私のやりたいようにしますからねェ
夢の時間は終わりだぜ!薄汚ねェシンデレラ!By石立鉄男」
義植「ひいいいーーーみんなバレてたのねんのねんのねんー!!」
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再起を図るが兵は集まらず、波瀾の人生に幕
命の危険を感じた義植は再び京都から家出し、和泉国堺に入り、反高国の勢力に集結を呼びかけますが、従ったのは畠山順光やごく一部の幕府の奉行人数名で政所頭人の伊勢定忠や奉行人のほとんどは京都に留まり義植を見捨てました。
しかも、義植が高国討伐の命令を出したのは、後柏原天皇の即位式直前だったので、一世一代の晴れ舞台を邪魔された天皇は、当然大激怒。
「ワガママ、ナマズ将軍の意向などいちいち諮らずとも良い。高国、汝が即位式を執り行え」と義稙を見限り、細川高国を信任してしまうのです。いつも自分勝手な義植の欠点が最悪の形で発揮された瞬間です。
こうして、細川高国は天皇の信任を後ろ楯に義植をクビにして11代将軍、足利義澄の遺児、足利義晴を12代将軍に擁立したのです。諦めきれない義植は和泉国から淡路国志筑浦に逃れ、ここで和泉国守護の細川澄賢や、河内国守護の畠山義英を味方につけて堺まで引き返しますが、兵が集まらずに高国に敗北。
その後沼島に潜伏した後で再起のために細川讃州家に赴いた矢先の大永3年(1523年)4月9日に阿波国の撫養で死去しました。享年58歳。
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日本史ライターkawausoの独り言
こうして義植は波乱の生涯を閉じますが、将軍職を巡る争いはこれで終ったわけではありませんでした。男子に恵まれなかった義植は、前将軍で対向者であった義澄の子の義維を養子としていたのです。義植の死後、義維は将軍職を継いだ兄の義晴と対立して抗争を繰り返しました。
この義維の子が足利義栄であり、義晴の子の足利義輝を永禄の政変で殺害した三好三人衆や松永久通に担がれて14代将軍に即位。今度は、義輝の弟で義晴の子でもある足利義昭と抗争を続ける事になるのです。
参考:Wikipedia
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