大日本帝国海軍は1872年から1945年まで存在した戦前の海軍組織です。黄海海戦や日本海海戦で大勝利をあげ、日本の富国強兵に多大な貢献をしました。このように強いイメージの帝国海軍ですが、最初から強かったのではありません。
今回は帝国海軍がどうして強くなったのかを解説してみます。
この記事の目次
陸軍に付属していた海軍
帝国海軍の前身は幕末の海軍操練所まで遡ります。海軍操練所を建設した勝海舟は「日本海軍の父」と呼ばれますが、明治維新の頃は新政府に陸軍と海軍を分離する発想はなく、両者は兵部省の中で統合されていました。
明治5年になると兵部省は解体され、陸軍省と海軍省が発足しますが、軍事費は陸軍のほうに多く配分され海軍については予算が余分にかかる事もあり後回しにされています。
海軍の立場が弱いのは、戊辰戦争が陸の戦いに終始し箱館戦争以外、艦隊戦が発生しなかったためで、海軍は陸軍の補給を担当すればよいと考えられたからでした。この陸軍に付属する海軍という認識は、陸主海従として帝国海軍を長く苦しめる事になります。
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台湾出兵から重要度が増す
冷や飯を食わされた海軍にスポットが当たったのは明治7年の台湾出兵でした。
台湾出兵は、明治4年に琉球の漁民が台湾先住民に多数殺害された事を口実に明治政府が出兵した事件ですが、海軍はこの時、陸軍中将西郷従道率いる遠征軍を「日進」「孟春」等の軍艦で護衛して台湾に無事上陸させ3ケ月で要地を占領したのです。
スピード制圧が功を奏し、外交交渉は日本の有利に進み、清朝は賠償金を支払いました。こうして政府の中にイザという場合の為に海軍力は増強しないといけないと考える機運が生まれます。明治8年、海軍大輔川村純義が提案した「金剛」「比叡」「扶桑」軍艦三隻の発注要求が海軍予算として通り明治11年には竣工しました。
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山本権兵衛
こうして、台湾出兵を契機に存在感を増してきた帝国海軍ですが、いまだに陸軍の強い影響下にあり、独立した作戦も立てられず組織面でも技術面でも、まだまだ発展途上の段階でした。
そんな、よちよち歩きの帝国海軍を西洋列強の海軍に匹敵する存在に高めたのが、薩摩藩士出身の山本権兵衛でした。山本は若い頃、西郷隆盛の紹介で勝海舟に出会い、島国の日本を強くするには海軍を興さないといけないと説く海舟の言葉に感銘を受けて海軍軍人になった人物でした。
勝海舟が帝国海軍の「産みの親」なら、山本権兵衛は「育ての親」であり、山本の存在なくして帝国海軍の強化はありえなかったのです。
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海上権をネタに陸軍の協力を引き出す
海軍士官として順調に昇進し、海軍次官の樺山資紀の欧米視察に1年間随行した山本は、西洋の海軍に比較して帝国海軍が遅れている事を痛感します。
明治24年、海軍省官房主事に任命された山本権兵衛は、陸軍に対して海軍の存在意義を認めさせるために「海上権」という新しい概念を陸軍首脳にレクチャーしました。
海上権とは今でいう制海権の事であり、1890年にアメリカ海軍大佐、アルフレッド・マハンが提唱して以来、帝国海軍が採用した考え方でした。
山本は「日本は島国で陸軍が渡海するには海軍の力を借りねばならない。それは補給や兵員輸送ばかりではなく、主要な軍湾を守備し電信を整備し、輸送船を護衛し敵艦隊を迎撃するなど海軍任務は多岐に渡る。海軍力強化は陸軍のためにも必要不可欠である」と説きます。
陸軍首脳は大陸国ドイツ陸軍に学んでいて海には疎いので、海上権という考え方に度肝を抜かれ、日清戦争において陸海軍の役割分担がスムーズに進んだと言われています。
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海軍軍令部を陸軍参謀本部から独立させる
山本は次に陸軍参謀本部から海軍軍令部の独立を訴えます。当時の海軍にも作戦指揮を担当する海軍軍令部があり、背広組である軍政部と区別されていましたが、その組織は独立しておらず陸軍参謀本部の中に位置づけされていました。
極めて技術的専門性が高く、陸軍と役割が違う海軍の作戦の最終決定権を陸軍が握っているというのは海軍にとって極めて不都合で同時に非合理でした。
山本は、ことあるごとに海軍軍令部の陸軍参謀本部からの独立を訴え続け、ようやく日露戦争直前の明治36年、平時においても戦時においても海軍軍令部が独立して作戦を決定する権利を認めさせたのです。
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徹底した人事刷新
山本権兵衛最大の功績は日清戦争後の海軍の人事刷新における大幅リストラでした。山本は軍務局長時代、将官8名、尉左官89名という空前のリストラを断行、その中には現役軍令部長中牟田倉之助さえ含まれました。
このリストラで山本は、親しい人間でも無能なら切り、仲が悪くても有能なら残すという方針を貫いたので、個人としても恨まれ多くの敵を作り、人事を発表して後、軍務局長室は数日、怒号と罵声に包まれたと言われています。
新聞は、権兵衛大臣の独断専行として批判、海軍の弱体化を懸念する山縣有朋や井上馨からも、上司である海軍大臣西郷従道に説明を求める事態になりますが、西郷は「責任は全て自分が取る」として山本の改革を擁護しました。
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専門家集団による近代海軍へ
ではどうして山本は激しい恨みを受けてまで大リストラを敢行したのでしょうか?
その理由は、当時人数を増やしつつあった海軍兵学校出身者を海軍の要職に就ける為でした。当時、海軍技術は日進月歩で進んでいて、維新の功績で海軍に入った人間と兵学校出身者では最新技術や戦術について大きな知識の隔たりが存在したのです。
山本は、海軍は専門家の手によって運営するべきであるとリストラを断行。帝国海軍は維新の古強者と専門技術者の寄合所帯から専門家集団に運営される近代海軍へと脱皮したのです。
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まだまだある山本権兵衛の功績
山本権兵衛の帝国海軍への貢献はまだあります。
① | 海外留学を奨励し、秋山真之、広瀬武夫などの多数の青年士官をアメリカ、
イギリス、ロシアに派遣した。 |
② | 国内の製鉄所、造船所を整備し戦時における修理・補給体制を充実させた。 |
③ | 当時最高級の英国炭を採用し全艦艇に配給した |
④ | 食事の改良に力を注ぎカレーや肉じゃがなどの栄養価の高い新鮮な献立を
奨励しパン食の採用で脚気を劇的に減らした |
⑤ | 日英同盟を積極的に支持し艦船もイギリスやアメリカに発注するなど広い視野に立って行動した。 |
日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破るまでに、これら改革は全て実現し、帝国海軍は西洋列強の海軍と肩を並べる存在になったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は帝国海軍がどのように強くなったのかについて解説してみました。
元々は陸軍の兵員や物資を輸送する運び屋さん程度の存在に過ぎなかった海軍ですが、台湾出兵の迅速な兵員輸送で存在感を強め、山本権兵衛が大改革を進めるに従い、維新の古強者と海軍兵学校出身者が分離され、近代海軍へ変化しました。
どんな組織もローマは一日にしてならずなんですね。
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