広告

武田で最強だった武将は誰?戦国の猛者武田二十四将を全員集合!

15/12/2021


真田丸 武田信玄

 

甲斐武田氏(かいたけだし)は、戦国でも屈指の最強軍団の呼び声が高いです。

 

武田四天王の一人・高坂昌信

 

武田信玄は「人は城、人は石垣、人は濠」の格言通り優秀な人材を登用する事に骨惜しみせず、戦国の武田氏には後世武田二十四将と讃えられる名将が集いました。今回のほのぼの日本史では、武田家中最強武将を選んでみましょう。

 

関連記事:戦国時代の甲府はどんな土地?武田信玄が拠点とした甲府は、なぜ首都になれなかったの?

関連記事:武田信玄存命なら長篠の敗戦は無かった?その地味で重要な理由とは?

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 ほのぼの日本史レポート引用について



武田二十四将を紹介

武田家の騎馬隊を率いていた老将・山県昌景

 

では、最初に武田二十四将を簡単に紹介します。

 

1 甘利虎泰(あまりとらやす) 甲斐武田氏の譜代家老、武田四天王。武田晴信の信虎追放に主導的な役割を果たすが上田原の戦いで村上勢から晴信を守り討死。
2 板垣信方(いたがきのぶかた) 武田四天王の1人、信虎と晴信の2人に仕えた。

信虎を追放した晴信が家督を継ぐと家臣団の筆頭格になる。晴信が諏訪氏を滅ぼすと諏訪郡代となり諏訪衆を率いて信濃計略で戦功を挙げ、村上義清との上田原の先陣を切り村上勢を破るが逆襲を受けて討死する。

3 飯富虎昌(おぶとらまさ) 信虎時代からの譜代家老。信虎追放後は信玄に仕えた。

軍事面では常に最前線に立ち天文22年(1553年)に自らが守る内山城を包囲する長尾景虎と村上義清の8000の軍勢を800人の手勢で撃退。信玄の信任厚く、嫡男義信の守役や赤備えを率いる大任を務めるが義信事件に連座し切腹。

4 小幡昌盛(おばたまさもり) 足軽大将。武田信玄、武田勝頼の2代に仕える。

第四次川中島の戦いで活躍する。父の虎盛の死後海津城副将の地位に推されるが昌盛は信玄の旗本の地位に収まる事を望み訴訟を起こし激怒した信玄に切腹を命じられるが諏訪勝頼や土屋昌続の懇願で赦免され、足軽大将に留まった信玄大好きっ子。織田徳川連合軍の甲州征伐時には病床にあり参戦出来ず、落ち延びる勝頼に甲斐善光寺で暇乞いをして病死した。

5 小幡虎盛(おばたとらもり) 遠江国の出身で父親が武田信虎に仕官したので甲斐国に入る。

父の死後14歳で家督を継ぎ信虎配下の足軽大将として甲斐統一戦争や今川、後北条氏の戦いで活躍。信虎追放後は信玄に従い、1559年に信玄が入道すると原虎胤や真田幸隆などと共に剃髪し日意と号する。永禄年間には高坂昌信の副将として海津城に入り上杉謙信と戦う。生涯36度の合戦に出撃し感状も36枚、41カ所の傷を受けた。

6 原虎胤(はらとらたね) 最初、千葉勝胤の家臣。

武田晴信が信虎を追放した時、虎胤は信虎に恩義を感じていた為、信濃から帰国し板垣信方や甘利虎泰に猛抗議した逸話が残る。武勇名高い猛将で鬼美濃・夜叉美濃と呼ばれたが、戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届けた逸話がある。信玄が剃髪すると共に剃髪して清岩と号する。永禄4年信濃国割ヶ嶽城攻略で負傷し以後は一線を退いた。

7 原昌胤(はらまさたね) 原昌俊の嫡男。足軽大将の原虎胤とは別系統。

甲陽軍鑑によると天文19年(1550年)に家督を継ぎ陣馬奉行を務め120騎を指揮。信玄側近の朱印状奏者であり、上野国衆への取次、寺社支配、甲斐国内の郷村に対する諸役免許や軍役動員などの朱印状や訴訟関係文書に名前があり事務官僚でもあった。

一時失脚後、天正3年(1575年)長篠の戦いで討死

8 山本勘助(やまもとかんすけ) 武田信玄に仕えた独眼で片足が不自由な軍事の天才。

天文12年(1543年)に板垣信方の推挙で信玄に仕え足軽五人衆と称される。永禄4年(1561年)の川中島合戦で作戦を指揮し失敗した責任を取り討死にした。武田流兵学の祖であるが、実在については今でも論争がある。

9 三枝昌貞(さいぐさまささだ) 三枝虎吉の子。武田信玄の近習衆として仕えて才能を認められ足軽大将に出世した。一時は信玄の勘気を蒙り蟄居。

しかし川中島の戦いで活躍し知行を与えられている。信玄直筆の手紙は昌貞を叱責するものが多いが順調に加増しており、信玄との精神的な近さを窺わせる。長篠の戦いでは主戦場を外れた鳶の巣山砦を守備したが酒井忠次率いる織田・徳川の別動隊による襲撃を受け奮戦するも戦死した。

 

10 真田幸隆(さなだゆきたか) 信濃小県郡の名族海野氏出身だが海野平合戦で所領を失う。しかし信濃に侵攻した武田晴信に仕えて旧領真田本城を回復。信濃先方衆として軍役を務め、村上義清方の望月氏の調略を開始。

天文22年(1553年)葛尾城が落城した村上義清は越後に長尾景虎を頼る。これにより真田幸隆は旧領を完全に回復。以後、川中島の戦いの幕が開くが真田氏は対長尾氏の最前線に置かれた。

11 真田信綱(さなだのぶつな) 真田幸隆の嫡男。甲陽軍鑑によれば第四次川中島の戦いで幸隆と共に妻女山攻撃の別動隊に参加した。戦場では専ら、父幸隆や真田昌輝と共に行動し信濃国や上野国を転戦し主要な戦いでは必ず名を連ねる。

天正2年(1574年)幸隆の死で真田家の家督を継ぐが、翌年の長篠の戦いに参戦。三尺三寸の陣太刀、青江貞を振るって奮戦し、馬防柵を次々になぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲隊の銃撃で弟の昌輝と共に戦死した。

12 武田信繁(たけだのぶしげ) 武田信虎の子。武田信玄の同母弟で武田二十四将では副将とされる。

信虎は信繁を偏愛し家督を譲ろうとしていたという逸話がある。しかし、信繫は兄の信玄を助け、信玄の信濃侵攻では補佐役として従事した。永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いで討死したが、信玄は戦死した信繁の遺体を抱いて号泣。敵軍の上杉謙信もその死を惜しんだとされる。補佐役として内藤昌豊と並んで優れた手腕を持ち信繁が生きていれば義信事件は無かったとも言われる。

13 武田信廉(たけだのぶかど) 武田信虎の子。信玄や信繁の同母弟。甲陽軍鑑では、信廉は80騎を指揮、兄の信繁が川中島で戦死すると親族筆頭となる。戦時には後方守備や本陣守備を務め、元亀元年(1570年)には信濃高遠城主になった。信玄の死後は一族の重鎮として飯田城代や大島城代をつとめ、信玄が追放した信虎が帰国を望むと高遠城に住まわせた。長篠合戦では山県昌景に続き二番に攻撃を仕掛けた。

天正10年(1582年)3月の織田信忠を先鋒とする甲州征伐では大島城を放棄して甲斐へ退却。その後、大した抵抗もなく森長可配下の各務元正、豊前采女によって殺害された。骨相が信玄に似ており、影武者を務めたとされる。

14 土屋昌次(つちやまさつぐ) 天文14年(1545年)生まれ。武田信玄に仕え元亀3年(1572年)三方ヶ原の戦いで徳川家康の家臣鳥居忠広を討ち取り武功を挙げる。天正3年(1575年)長篠の戦いで戦死。
15 山県昌景(やまがたまさかげ) 第二期の武田四天王。武田信玄の近習として仕え使い番となり、累進して手柄を立て譜代家老に進む。兄の飯富虎昌が武田義信の謀反に連座し飯富から山県に改正。

信玄が駿河に侵攻すると江尻城代となり西上作戦では別動隊を率いて信濃から三河に侵攻した。信玄没後、馬場信春と勝頼を補佐したが疎まれた。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは開戦に反対したものの勝頼に押し切られ参戦。一番に攻撃を仕掛けたが敗退し織田軍の追撃の最中に戦死した。

16 馬場信春(ばばのぶはる) 元の名は教来石景政(きょうらいしかげまさ)。甲斐の名門馬場氏が武田信虎の逆鱗に触れて家名断絶となった後晴信の命令で信治が馬場氏を相続した。

信虎、晴信、勝頼の3代の君主に仕え軍功が多く、武田四天王に数えられる。信玄死後に勝頼の補佐を命じられるが折り合いが悪く遠ざけられた。長篠の戦いでは、勝頼に退却を進言したが容れられず、殿をつとめて織田と徳川の連合軍を防ぎ、本隊脱出を見届けた後に討死した。

17 内藤昌豊(ないとうまさとよ) 甲斐国人、本姓は工藤、通称は源左衛門。内藤昌秀とも、武田信玄に仕え天文15年50騎を率いる侍大将となり内藤を名乗った。後に上野国箕輪城(みのわじょう)代、小荷駄奉行(こにだぶぎょう)を務める。

武田信繁と並ぶ天性の副将で武略に優れたが信玄は「源左衛門であればこの程度は当然」として感状を一枚も出さず昌豊も「個人の手柄など小さい」として気にも止めなかった。

天正3年(1575年)に長篠の戦いでは馬場信春と共に勝頼本隊を逃がすべく殿を務めた後、今川氏真配下朝比奈泰勝(あさひなやすかつ)に討たれた。

18 高坂昌信(こうさかまさのぶ)

春日虎綱(かすがとらつな)

本名は春日虎綱。百姓春日大隅の子だが、兄夫婦に訴訟に敗れて財産を奪われ、信玄に近習として仕え頭角を現す。弘治2年(1556年)に海津城代となり永禄4年(1561年)川中島の戦いでは城を死守した。

長篠の戦いでは上杉に備え参加しなかったが、長篠の戦いに大敗した勝頼を信濃駒場で迎え衣服と武具を整えさせた上で、五か条の献策をしたと伝わる。越後の上杉氏との同盟締結に尽力し天正6年(1578年)に死去。

19 秋山虎繁(あきやまとらしげ) 武田信玄と勝頼に仕える。信濃攻略時、伊那郡の調略に功績を挙げ高遠城と飯田城を預かり、伊那郡の兵を率いて遠江、三河、美濃を転戦。元亀3年(1572年)岩村城主の遠山景任の死を契機に岩村城を包囲して陥落させた。岩村城は織田信長が重要拠点として、5男の織田勝長を送り込み景任に嫁いでいた叔母のおつやの方が城を取り仕切っていたが城はおつやが虎繁に嫁ぐ事を条件に和睦を打診し虎繁は快諾。

しかし、この事が信長の逆鱗に触れ、長篠合戦で武田勝頼が敗北すると織田軍は攻勢に転じて5カ月の包囲の末に城は陥落。虎繁は岐阜長良川原で斬首、おつやの方は信長により斬首された。

20 穴山信君(あなやまのぶただ) 甲斐武田氏の一族で母は武田信玄の姉、妻は信玄の娘。

甲斐国巨摩郡下山(こまぐんしもやま)を拠点に河内地方を領有。信玄、勝頼に従い各地を転戦し領国経営にも参加した。今川氏とは縁戚関係にあり、駿河が武田属国となると江尻城城主として庵原郡の支配を負かされ徳川氏との交渉にあたる。天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻では逸早く信長に帰順し甲斐国内に領土を安堵された。しかし、その後信長への御礼挨拶に上洛した途中、本能寺の変に遭遇。逃げる途中一揆勢に討たれた。

21 一条信龍(いちじょうのぶたつ) 武田信玄の異母弟で信虎の末子とされる。

鎌倉時代に断絶していた甲斐武田氏・武田信義の次男、一条忠頼を祖とする一条氏を継承。親族衆として騎馬200騎を有し、本願寺及び松永久秀等畿内勢力との外交を担当。信玄死後は遺言により勝頼の後見人になる。長篠の戦いでは、佐久間勢に攻撃を加え二重の柵を破るまでの活躍を見せ敗走する自軍の中で馬場信春勢と戦場に留まり勝頼の離脱を見極めた上で退却した。甲州征伐では三河勢1万に居城上野城を包囲され手勢300で突撃し子の信就共に討死。

22 小山田信茂(おやまだのぶしげ) 武田の郡内地方の国衆。祖母が信虎の妹で信玄の従甥にあたる。永禄8年(1565年)兄の弥三郎が病死した為に家督を相続した。武田信玄は今川との同盟を解消し駿河に侵攻。信茂はその先陣を務めた。その後、同盟断絶により紛争状態となった北条、今川勢力との戦いに参加した。

元亀3年(1572年)信玄が信長と断交して西上作戦に出ると信茂は三河と遠江へ侵攻し三方ヶ原の戦いにも参加する。長篠の戦いでは敗北した勝頼を守って退却したが、天正10年の甲州征伐では武田勝頼一行が郡内領に退避する中で信茂は勝頼から離反した。勝頼が天目山の戦いで自刃すると、信茂は人質を差し出して信長に拝謁を願い出るも織田信忠より勝頼への不忠を咎められ処刑された。

23 横田高松(よこたたかとし) 甲陽軍鑑によれば高松は近江国甲賀郡出身。

佐々木氏一族で六角氏の家来とされる。武田信虎の時代に甲斐に入り足軽大将として仕えた。信玄の時代に本格化した信濃侵攻で活躍し志賀城攻めでは関東管領上杉憲政が派遣した後詰の軍を撃退した。

上田原の戦いで敗北した信玄が劣勢を挽回しようと信濃村上氏の拠点の砥石城を包囲。高松も従軍するが難攻不落の城を落とせず武田軍は退却。この時、高松は逆襲する村上軍を一手に引き受け戦死した。信玄は高松の死を嘆き「武者になるなら高松のようになれ」と子孫に言い伝えた。

24 多田満頼(ただみつより) 摂津源氏一族の多田源氏の後裔と称した。

甲陽軍鑑では美濃国生まれ。弓矢修行で甲斐に渡り武田信虎に仕えて足軽大将になった。その後武田晴信にも仕え29の武功を挙げ、全身に27カ所の傷があったという逸話がある。原虎胤、横田高松、小幡虎盛、山本勘助と五人衆に数えられる。

確実な史料としては天文16年(1547年)信濃佐久郡・志賀攻めにおいて活躍が見られ翌年の信濃守護小笠原長時との戦いにおいては信玄から感状を受けた。関東管領上杉憲政の援軍と小田井原の戦いにおいて板垣信方等と共に活躍した。永禄4年(1561年)の川中島の戦いではすでに病床にあり、2年後に病死した。

 

関連記事:武田騎馬隊は竜騎兵と化していた?その臨機応変な対応の理由とは?

関連記事:山県昌景(やまがたまさかげ)とはどんな人?武田家四名臣の一人・赤備えを率いた戦国武将

関連記事:武田二十四将とはどんな人?武田信玄の武将たちを紹介

 

ほのぼの日本史Youtubeチャンネル

 

 

武田二十四将最強は?

軍議(日本史)モブa

 

武田二十四将の中で猛将にランク付け出来るのは、多田満頼、山県昌景、一条信龍、真田信綱、原虎胤、飯富虎昌など複数いますが、やはり最強は四天王、馬場信春ではないかと思います。

武田騎馬軍団 馬場信春

 

信虎、信玄、勝頼の3代に仕え40数年忠勤に励んだ上に70回を超える合戦に参加しながら、長篠の戦いまでかすり傷一つもなく不死身の馬場美濃、不死身の鬼美濃と称されています。

 

武田二十四将(馬場信春)をメイン

 

また、非常に名誉を重んじる性格で永禄11年(1568年)の駿河侵攻では、今川氏の集めた財宝や名物を運び出せと命じた信玄に対し、そんな事をすれば後世から貪欲武将と(そし)られるとして周囲が止めるのを無視して財宝を再び炎の中に投げ込んだとされています。

 

信玄はそれを知って「さすがは7歳年長だけの事はある」と恥じ入ったとか

 

武田信玄が作った甲陽軍鑑

 

個別の戦いでも、三方ヶ原では徳川軍を浜松城下まで追い詰め、長篠の戦いでは、700名の手勢で丸山に陣取る織田軍の主力佐久間信盛の6000人と対峙、信春は700人を二手に分けてついには丸山を奪取しました。

 

長篠の戦い(鉄砲一斉射撃)

 

鉄砲と木柵により武田軍が総崩れになった後も、内藤昌豊と共に退路にある隘路に陣取り、数百で連合軍の攻勢を防ぎ勝頼を逃がした後に織田軍の原田直政配下の河井三十郎に討ちとられたそうです。

 

関連記事:馬場信春(ばばのぶはる)とはどんな人?鬼と呼ばれた武田四名臣の一人

関連記事:武田騎馬軍団の強さの秘密!どうして武田では騎馬が有名になったのか?

 

武田信玄

 

 

長篠の戦いで壊滅した二十四将

武田勝頼に撤退を進言するも聞き入れてもらえず残念がる山県昌景

 

武田氏は信玄死後も勝頼が後継者になり、長篠の戦いの大敗の後も、天正10年(1582年)までは存続していますが、やはり長篠の敗戦は大きな人的な損失でした。

 

戦死する山県昌景

 

馬場信春、山県昌景、内藤信豊、土屋昌次、真田信綱、原昌胤、三枝昌貞と7名にも及ぶ名将が討死してしまい、人的被害が甚大になったからです。

 

前田利家と共に鉄砲隊を率いて武田勝頼を撃退する佐々成政

 

長篠の敗戦により武田が滅んだわけではありませんが、長篠の戦いがなければ武田の滅亡は、もう少し延びたか、あるいは無かったかも知れません。

 

関連記事:武田信玄の西上作戦はないない尽くしの超ボンビー遠征だった

関連記事:武田信玄は増税で領民を絞った血も涙もない領主だった

 

三国同盟を潰したあの男

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は武田二十四将を紹介しつつ、その中でも最強武将は?という事で考えてみました。

 

武田信玄

 

実際には、武田二十四将は江戸時代になってから選抜されたもので、その影響でメンバーが入れ替わったりもしているのですが、いずれの武将も武田家の命運に大きく関与していて、二十四将の生涯を追う事はそのまま戦国武田氏の歴史を追う事になり、興味深い経験になりました。

 

関連記事:【ちょい引く】武田信玄の遺言は前半、果てしない自慢話だった!

関連記事:武田信玄がヒャッハーだった説はどこまで本当?

 

はじめての戦国時代

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
カワウソ編集長

カワウソ編集長

日本史というと中国史や世界史よりチマチマして敵味方が激しく入れ替わるのでとっつきにくいですが、どうしてそうなったか?ポイントをつかむと驚くほどにスイスイと内容が入ってきます、そんなポイントを皆さんにお伝えしますね。日本史を勉強すると、今の政治まで見えてきますよ。
【好きな歴史人物】
勝海舟、西郷隆盛、織田信長

-武田家(戦国)
-,