戦国大名は実力で領土を拡張しますが、その一方で官位を好んで名乗りました。特に織田信長が名乗ったことで有名な弾正忠は、信長以外にもいろんな人が名乗っています。
今回はこの弾正忠について詳しく解説してみましょう。
この記事の目次
官位とは何か?
官位は弾正忠を含め、日本では古代の律令制を導入してから、近代明治の議会制を取り入れるまで存在したものです。元々は中国の制度だったものを日本で取り入れてから独自の発展を遂げました。
最初は推古天皇の時代に、聖徳太子が制定した冠位十二階から始まります。これによりそれまでの豪族の出自などとは無関係に人材登用の道が開けました。やがて大宝令、養老令により、官位は確立します。
やがて平安時代になると、血脈的な尊卑や家格の象徴となって行きました。さらに武家の時代になると、より形式的なものとなっていき、戦国大名たちが自らの家格に箔をつけるような意味合いで、この官位を朝廷に献金するなどして任命してもらったり、勝手に自称したりするようになりました。
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弾正忠とは弾正台という朝廷機関 の役職のひとつ
弾正忠とは、もともと朝廷にあった弾正台という機関の任に就く人のもの役職でした。この機関は律令制では、警察や監察のような役目を果たします。より具体的には中央の京内での風俗の取り締まり、風紀委員のようなものでした。
弾正台は左大臣以下を摘発できる権限があります。平安京でこの機関があった場所は大内裏の外郭十二門のひとつ「皇嘉門」の近くで、この門は南側の大内裏の正門だった朱雀門の東隣にありました。ただ実際には名目上の官位で、別の機関である刑部省、あるいは嵯峨天皇時代に制定された検非違使がこの任務にあたっています。
弾正台では次のような官位がありました。
長官:弾正尹:従三位相当
以下、
弾正大弼
弾正少弼
弾正大忠
弾正少忠
弾正大疏
弾正少疏
となっており、信長が名乗った弾正忠は、実際には大と少のふたつに分かれています。またこの下には、台掌、巡察弾正などの役職がありました。
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信長の家系では代々名乗っていた?
信長が名乗ったことで有名な弾正忠ですが、織田家では信長だけが名乗っていたわけではありません。織田家は越前国織田荘にある劔神社(織田明神)が発祥といわれております。当初は藤原氏の流れ(北家利仁流)を名乗っていましたが、途中から桓武平氏資盛流を称しました。
この織田家はいくつも分家が分かれました。室町時代に尾張守護を任じられた斯波氏の家臣だった織田氏(岩倉織田氏、清州織田氏)が、代々守護代を務めます。しかしその守護代の清州織田氏の分家に織田弾正忠家というのがありました。これが信長の直接の先祖。
つまり代々「弾正忠」を名乗る家と言うことになります。信長の曾祖父・良信、祖父・信定は弾正忠と弾正左衛門尉を、父・信秀も弾正忠を名乗りました。しかし名乗っていますが、あくまでこれは自称。ところが信秀の場合は、九条家の推挙により正式に弾正忠に任官したという情報があります。
これは信秀が勢力を拡大しながら朝廷を重視していた側面がありました。京都から蹴鞠の宗家を読んで蹴鞠会を開催。また上洛して朝廷に献金、後に内裏修理料として4000貫文を献上したり、13代将軍足利義輝に拝謁したりするなどの活動を積極的に行いました。
その結果朝廷より従五位下、備後守、三河守にも叙位されています。
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信長が正式に「弾正忠」を名乗った時期は
信秀から信長の時代になり、武力で守護代の織田家を滅ぼすなどして勢力を固めていたころは、自称として上総介を名乗っていました。やがて尾張を統一、美濃の斎藤氏を滅ぼし2ヶ国の大名になったころ。少なくとも1566年には尾張守の署名が残されています。
このころ13代将軍・義輝が殺害されました。その弟の義昭からの要請で信長は上洛。京都を制圧し、そこを拠点に各大名と戦います。そして正式に朝廷から弾正忠が贈られたとの記録があります。そして従五位下に叙任されました。
これは義昭から管領や副将軍になるよう要請しましたが、信長はそれを拒み、代わりについたともいわれています。信長は1568年に弾正少忠、その2年後には弾正大弼に任命されています。
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信長が弾正忠の次に名乗った官位・肩書
室町幕府15代将軍義昭がいるものの、畿内を実効支配していた信長に対して、朝廷が彼の官位を急激に上げようとします。弾正忠の認可を受けた直後は、父信秀と同じ従五位下でした。やがて従四位下となり、さらに正四位下と上がっていきます。
そして参議に叙任され、従三位になったのが1574年のこと。このときは、信長が室町幕府を滅ぼし、名実ともに天下人となったころです。以降は毎年のように官位を上げ、翌1575年には権大納言、右近衛大将、1576年に内大臣、そして1577年には右大臣にまで出世します。
信長のことを「織田右府」と呼ぶのは、この官位が最高位だったからです。翌1578年には正二位に。ところが信長は、この年に突然すべての辞任します。信長は家督を譲った長男・信忠に、官職を譲ることを希望しました。しかしこれが実現しなかったのが理由のようです。
これに慌てたのは朝廷。場合によっては信長が天皇を含めた朝廷そのものも滅ぼしそうな勢いがあります。そこで朝廷は「征夷大将軍」「関白」「太政大臣」を用意し、どれかに就任させて、どうにか信長を朝廷内に取り込もうとしました。これを「三職推任問題」と呼びます。
ところがこれに信長が就任する前に本能寺の変が勃発。信長の死により立ち消えとなりました。
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信長以外に名乗った主な人物
信長やその一族(織田弾正忠家)以外で、この弾正忠を含めた弾正台の官職についた人物を紹介します。この中には信長のように朝廷が正式に任命した人物と、先祖のように勝手に自称した人物に分けて行きましょう。
・正式任命
源仲国(弾正少弼:平安末から鎌倉初期に活躍した後白河上皇の近習)
松永久秀(弾正少弼:1560年に叙任)
上杉謙信(弾正少弼:1552年に叙任)
上杉景勝(弾正少弼:謙信より譲られ叙任)
上杉定勝(弾正大弼:米沢上杉家2代当主)
以降、代々の米沢上杉家当主は弾正大弼に叙任される。
・自称
織田信行(弾正忠:信長の弟)
真田幸綱(弾正忠:攻め弾正)
保科正俊(弾正忠:槍弾正)
高坂昌信(弾正左衛門尉、後に弾正忠:逃げ弾正)
このほか公家や皇族の中にもこの位に就いた人がいます。
平安中期の皇族・為尊親王は、最高位の弾正尹につき、弾正宮と呼ばれていました。また幕末の朝廷にいた中川宮朝彦親王は、二品弾正尹に任じられており、尹宮と称されています。
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明治時代に2年ほど存在した弾正台
古代律令制の時代から続き、信長ら戦国大名が自称した。弾正台は、明治維新の新政府にも設置されました。1869(明治2)年に太政官制に基づき正式に設置された省庁。刑法官監察司に代わる監察機関として、東京に本台、留守官として京都に支台が置かれました。
初代長官(弾正尹)が九条道孝、次官(弾正大弼)に、池田茂政が任じられています。この役職を設けた理由は、過激派だった尊王攘夷派の懐柔が目的でした。彼ら不平分子が開国政策、近代化を推し進める明治新政府にとっては厄介な存在。
そこで彼らの多くを採用することで不満を少しでも発散しようとしました。しかし新政府の改革路線と対立し、他の官庁とも対立が深まってしまいます。
そして襲撃・暗殺された横井小楠と大村益次郎の犯人を取り締まるべき立場でありながら、逆に弾正台側の人間が彼らを非難し、自業自得と主張するなど問題が多く、最終的に明治4年には刑部省と統合。新たに司法省を新設することにより、廃止となりました。
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戦国時代ライターSoyokazeの独り言
信長が名乗った弾正忠。元々曾祖父から自称していたこともあり、織田弾正忠家といわれていました。その信長が頭角を現し、京都に入ってから弾正忠を正式に任命され、さらに勢力を拡大していきます。
室町幕府滅亡後はどんどん官位を上げますが、途中の辞退と本能寺の変があって結局右大臣どまり。もし信長がさらに生きていたら、どこまで官位が上がっていたかも気になります。
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