治承4年(1180年)10月20日、平維盛が率いる征討使四千騎は、甲斐源氏、武田信義率いる四万騎に対し成すすべなく潰走、以後、平家の威信は失墜、全国で平家討伐の機運が盛り上がる事になりました。
富士川の戦いは平和に慣れた平家の弱さの象徴として、特に総大将維盛が批判されがちですが、維盛だけが敗北の原因ではありません。富士川の戦いは幾つもの判断ミスで最初から勝ち目がなかったのです。
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平家直属の精鋭を最小限にした清盛の愚
治承4年(1180年)9月4日、源頼朝が挙兵して伊豆国衙を落としたとする情報が福原京に届きました。
福原京の平清盛は平維盛を追討使に任命、副将として平忠度と平知度をつけます。この段階で清盛は頼朝の挙兵を甘く見ている事が分かります。
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維盛は平家主流から外れた弱小勢力
平維盛の父、重盛は非常に有能で清盛の後継者と目されていましたが、生母が早く亡くなり朝廷とのパイプが弱く、逆に清盛の後妻で入った平時子の家系からは、妹の滋子、娘の徳子が次々と天皇の妃となり平家の地位を高めていました。
そういう事で重盛が死ぬと、清盛は時子との間に生まれた平宗盛を後継者にします。つまり維盛は平家とはいえ傍流で落ち目でしたし、副将につけられた忠度や知度も主流とは言えない人々でした。
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出撃したのは平家の精鋭の1/10
グラフを見ると平家一門では清盛や宗盛、知盛のような清盛に近い人に家人や郎党のような精鋭が多く疎遠になるほど家の力が落ちて兵力が少なくなります。
あくまでも推測ですが維盛や忠度、知度が率いた家人や郎党は全体でみると1/10以下だったと考えられます。清盛が傍流の維盛ではなく後継者の宗盛を総大将にしていれば、富士川の戦いの結果は大きく変わったでしょう。
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平安末の兵力は4種類
平安時代の軍制というのは国軍が解散していた事情もあり複雑で、兵力といっても大きく分けて4つありました。
グラフで見ると中心が家人で平家の血筋に連なる人。こちらが一番忠誠心が強く頼りになります。次に郎党がいてこれは平家と主従関係を結んだ武士を意味します。家人ほどではありませんが、平家に属しているので戦意は高いほうです。
次に朝廷武官で、京都で軍事に従事している役人、これは天皇や上皇に仕えていて、平家に仕えている感覚があまりない人々でした。最期が在庁官人や地方豪族で地方で朝廷の仕事をしている身分の低い役人か、同じく地方にいて役人ではない豪族です。
こちらは、天皇の命令で出撃には応じるものの、平家への忠誠心がゼロで平家が負けそうだと思うとさっさと退却したり、敵に寝返ったりしました。なので頼りになるのは家人や郎党ですが維盛の軍勢は家人や郎党が少なく、自然に朝廷武官や在庁官人、地方豪族に対する依存度が高くなるのです。
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配属が変えられない平安武士
こんな風に言うと、人数が多い清盛や宗盛から臨時に精鋭を分ければいいのにと感じますが、当時の軍事制度では不可能でした。近代の国民軍は兵士も将校も国に属し、所属の変更もよくあります。ところが平安末の武士は兵士以前に家族です。例えば清盛配下になった武士はそこから維盛の配下になったり宗盛の下に移動する事がありません。
俗な言い方をするとヤクザの一家に入った構成員が盃も受けていない赤の他人の為に鉄砲玉になれと言われるようなものでした。
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駿河や相模の平家家人の力を過大評価した清盛
ではどうして清盛は勢力が小さい維盛を総大将にしたのでしょうか?
これには当時の関東の情勢が影響していました、伊豆の頼朝の周辺は駿河目代の橘遠茂や伊東祐親がいて相模にも平家家人の大庭景親がいました。さらに9月6日には、大庭景親から石橋山で頼朝を破ったとする情報が届き、清盛は楽勝を確信。9月22日征討使はようやく福原京を出発します。
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福原京を出た征討軍に異変が
ところが京都に比較して街道が集中していない福原京は、在庁官人や豪族の集まりが鈍く9月23日、征討軍は出発するには日取りがよくないと1週間京都に滞在します。しかし実際は在庁官人や豪族は頼朝を恐れ、または平家への反発から朝廷の命令を無視したり、意図的に兵力を減らしていました。
追討使は9月30日に出発しますが1週間の遅れは致命的な結果を生みます。
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関東では頼朝、義仲、信義が平家の軍勢を破る
追討使は治承四年(1180年)10月16日に駿河国高宿に到着します。
しかし、遅れた1週間の間に、頼朝は房総半島で河内源氏の家人たちと合流して態勢を立て直し坂東八平氏に対して参陣するか敵対するか決断を迫りつつ勢力を拡大。10月15日には3万騎以上を集め鎌倉を本拠地にしていました。
信濃で挙兵した源義仲は10月13日に上野国に入り亡父義賢に仕えた家人を支配下に組み込み、北関東最後の平家与党の足利忠綱と対決する準備をしています。
そして甲斐では甲斐源氏が工藤一族と挙兵し、8月25日に大庭景親の弟、俣野景久の軍勢を撃破、さらに平家追討使が迫っているのを知った甲斐源氏の武田信義は10月15日に愛鷹合戦で駿河目代、橘遠茂の3000騎を待ち伏せ横から攻撃し撃破していました。
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大庭景親は追討軍と合流できず軍を解散
石橋山で頼朝を撃破した大庭景親は千騎を率いて健在でしたが、西への道を源氏の勢力に塞がれて維盛と合流できず、ついに軍を解散し山の中に逃げ込んだところを頼朝に寝返った豪族に捕らえられ鎌倉に護送され斬首されます。
このように、平家の追討使が駿河国に入った10月15日には東国に平家の勢力はいなくなっていたのです。もし面子にこだわらず1週間早く京を出発していれば、10月9日に駿河国に到着して橘遠茂の軍勢や大庭景親の軍と合流できたのですが、全ては手遅れでした。
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富士川で対峙するも戦うどころではなかった
10月18日、平家の追討使は富士川西岸に進出して、武田信義率いる甲斐源氏四万騎と対峙します。対する平家追討使は四千騎と1/10で、おまけに周囲に平家勢力はいません。対峙して間もなく義理で参戦している国衙の在庁官人の軍や地方の豪族が離脱します。中には富士川を横断して対陣の甲斐源氏に寝返る者も出て、追討使の四千騎は二千騎に減少し、増々士気は低下し疑心暗鬼が広がりました。
こういう時のために、平家の家人や郎党の数を増やしておくべきでしたが、清盛の判断ミスが最後まで響く事になります。最後まで戦う意志があるのは維盛や忠度、宗度の家人や郎党、それぞれに付属する侍大将くらいでしたので、10月18日に追討使は一戦も交えずに遠江国府に退却を決意しました。
退却は上手くいきますが、19日の夜に手越宿まで逃げてきた際、征討使に参加していた豪族が甲斐源氏に寝返ろうと宿に火をつけ、それに驚いた水鳥数万羽が一斉に羽ばたき敵襲と勘違いした追討使は我先にと逃げ出します。それが10月20日の大潰走に繋がったのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
京都まで辿り着いたのは僅かに数十騎という大敗北を受けて、以仁王の挙兵失敗で一時は下火になっていた平家追討の動きは全国に拡大しました。
この一戦は絶対に落してはいけないという大事な一戦を落としたのが富士川での敗戦だったのです。これより後、平家に対する反旗は途絶える事がなく、栄華を極めた平家は五年足らずで壇ノ浦の海の藻屑と化すのです。
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