石橋山の戦いは?最初で最後の敗戦が頼朝に与えたインパクト【鎌倉殿の13人】

17/01/2022


何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

石橋山(いしばしやま)の戦い(石橋山合戦)とは伊豆国目代(いずのくにもくだい)山木兼隆(やまきかねたか)を討って国衙(こくが)を占領した源頼朝(みなもとのよりとも)が平家の命令を受けた大庭景親(おおば・かげちか)の率いる3000騎に撃ち破られ、絶体絶命の窮地に陥った負け戦です。平治の乱を除けば頼朝の生涯唯一の敗戦となった石橋山合戦はどんなものだったのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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頼朝三浦一族と合流すべく伊豆を出る

戦国時代の武家屋敷b

 

源頼朝は伊豆国目代である山木兼隆を300騎あまりで奇襲して兼隆の首を獲る事に成功します。この戦いを自分の運試しとすると息巻いた頼朝は、安心して一息つきますがのんびりもしていられませんでした。

 

いかに伊豆国衙を落としたとはいえ、頼朝の手勢は僅かに300、そして伊豆には平家から源氏追討の命令を受けた大庭景親や伊東祐親(いとうすけちか)のような大勢力が温存されているのです。グズグズしていれば大庭と伊東の軍勢に潰されるのは目に見えていました。

 

頼朝の目下(もっか)の頼みの綱は相模国三浦半島に勢力を築いた三浦一族の騎兵1000です。三浦一族の長老、三浦義明(みうらよしあき)は生きて源氏の再起をみれるとは思わなかったと感涙(かんるい)にむせんだそうで頼朝に合力を約束していました。

 

しかし、待てど暮らせど三浦一族は到着する様子がありません。しびれを切らした頼朝は、こちらから合流すべく8月20日に北条館からわずかな兵力で伊豆を出て、土肥実平(どひさねひら)の所領相模国土肥郷(どひごう)まで進出します。

 

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頼朝軍、石橋山で大庭景親軍と衝突

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝

 

これに対して、平家方の大庭景親が俣野景久(またのかげひさ)渋谷重国(しぶやしげくに)海老名季貞(えびなすえただ)熊谷直実(くまがになおざね)など3000余りの騎兵で迎撃にでました。8月23日、頼朝は300騎で石橋山に陣を構え、以仁王(もちひとおう)令旨(りょうじ)を旗に高く掲げさせます。谷をひとつ隔てて景親の軍も布陣します。

 

さらに伊豆国の豪族、伊藤祐親も300騎兵で石橋山の後山まで進出し頼朝の背後を塞ぎました。この日はあいにくの暴風雨で、近くまで来ていた三浦一族は増水した酒匂川(さかわがわ)に阻まれて合流できませんでした。

 

荒れる黄河

 

前日に三浦一族は頼朝と合流すべく衣笠館を出陣していて途中で景親の一族の館に火を放ちます。景親はこれを遠望し、三浦一族が到着する前に頼朝軍を踏みつぶそうと頼朝の陣に奇襲を掛けました。

 

平家物語によれば、奇襲に先立ち両軍は「言葉戦い」をしたと言われています。言葉戦いは味方の武勇を誇り、敵を(おと)める伝統的な戦の作法であり頼朝軍からは北条時政が、大庭軍からは景親が出てお互いに相手を(けな)し自軍を褒め讃えたそうです。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

頼朝軍大惨敗

敗北し倒れている兵士達a(モブ)

 

奇襲は暴風雨の中で開始され、頼朝軍は奮戦するものの多勢に押し切られて郎党の岡崎義実(おかざきよしざね)の子、佐奈田与一義忠(さなだ・よいち・よしただ)などが討死して大敗。大庭軍は勢いに乗り頼朝の首を狙いますが、ここで奇跡が起こります。

 

大庭軍に参加していた飯田家義(いいだいえよし)が、こっそり頼朝に味方し頼朝勢を土肥の椙山(すぎやま)へ非難させたのです。元々、家義は石橋山で頼朝に加勢しようと考えていましたが境川の前を大庭景親に後方を弟の俣野景久に挟まれ、その場は平家方のフリをして参戦したのです。

 

翌24日、大庭軍は追討の手を緩めず、逃げ惑う頼朝残党は山中で激しく抵抗、頼朝も弓矢をとって百発百中の腕前を見せます。

 

蒙古兵に先駆けをする竹崎季長

 

しばらく後、生き残った頼朝の郎党は集まり、土肥実平が「ここは拙者の領地だから頼朝1人くらいは命懸けで(かくま)ってみせる。だが大勢では無理だ。無念だがここはバラバラに落ち延び雪辱(せつじょく)を晴らす機会を待とう」と言い、郎党は涙ながらに散っていきました。

 

北条時政

 

頼朝の義父である北条時政と次男義時は甲斐源氏を頼って甲斐に向かい、時政の嫡男の宗時は別路を行く途中に伊東祐親の軍勢に包囲され討死します。

 

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ながら日本史

 

 

梶原景時に見逃される

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

頼朝は椙山の「しとどの窟(いわや)」に身を潜めていましたが、ここで大庭軍の武士、梶原景時とハッキリ目が合います。討死(うちじに)を覚悟する頼朝ですが景時は何も言わずにその場を離れ、大将の景親に「この山ではなく向こうの山が怪しい」と進言。大庭軍を窟から遠ざけ頼朝を窮地から救いました。

 

不思議な事に頼朝は、敵方についた人間に二度も救われ生涯最大のピンチを乗り切ったのです。

 

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舟で安房に逃れ不死鳥の如く再起

炎上する城a(モブ)

 

人生最大の危機を免れた頼朝と土肥実平は、箱根権現社別当(はこねごんげんべっとう・)行実(ぎょうじつ)に匿われた後で箱根山から真鶴(まなづる)半島に逃れ、そこから船を仕立てて出航。途中で本拠地の衣笠館を畠山重忠(はたけやましげただ)軍に落された三浦一族と海上で合流し、ある程度形を整えてから安房国を目指して落ち延びました。

 

9月、安房においては頼朝は再挙、応援を取り付けていた安西氏、千葉氏、上総氏(かずさし)などに迎えられ房総半島を進軍して武蔵国に入ります。そして、千葉氏、上総氏などの東国武士が平氏方目代や平氏方豪族を平定しながら続々と集結し1か月かけ数万騎の大軍へ成長します。頼朝が石橋山で敗れ、自ら安房に入った事が多くの味方を得る事に繋がったのでした。

京都御所

 

こうして、平家の追討軍に一息で潰される心配が消えた頼朝は、義朝や兄義平が本拠地にした鎌倉に入城します。以後の頼朝は、鎌倉からほとんど動かず弟達を西国に派遣し、源義仲や平家との戦いの采配を振るいます。

 

 

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石橋山から2カ月で首を斬られた大庭景親

敗北し倒れている兵士達b(モブ)

 

一方で、頼朝を破った大庭景親や伊東祐親は平家の討伐軍がなかなか来ない内に源氏に従う敵が増えたので、軍を解散してめいめいで平家軍に合流しようとします。しかし、軍を解散した途端、内心頼朝に付きたがっている部下に捕らえられ身柄は頼朝に送られます。景親は降伏を願ったものの許されず斬首されました。それは景親が石橋山で頼朝を追い詰めた時から僅か2カ月後で時代の激動ぶりが見て取れます。

 

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日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は石橋山の戦いを解説しました。敗れた頼朝ですが、敵方の人間に二度も命を救われ、また、自ら安房に渡って在地勢力を説得した事で有力武士団の上総氏や千葉氏が支配下に入るなど、まるで必要な敗戦だったように感じます。

 

スピリチャルな言い方ですが頼朝は、何かを持っている人物だったのかも知れません。

 

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大和朝廷

 

 

 

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