地方の戦国大名が好きな方、喜んでください!あるいは、もう名前を出しちゃいますが、長曾我部元親好きの方はぜひ読んでください!というのも、こんなネット企画記事を見つけたのです。
福知山光秀ミュージアムの企画した、『明智光秀「本能寺の変 原因説50 総選挙」3万人の“推し説”投票結果発表!』。
歴史ファンたちが投票した本能寺の変黒幕説の「推し」アンケートにて、羽柴秀吉黒幕説など、昔から根強い「容疑者」の数々の中、なんと第六位という好位置に長曾我部元親の名前が登場したのです!
地方大名好きならば、がぜん注目したいこの「説」、いったいどういうことなのでしょうか?
実はこれは、根も葉もない伝説の類というわけでもなく、最近の研究によって「本能寺の変の直前に、長曾我部元親が明智光秀と連絡を取り合い、信長による四国侵略を停めるための秘策を必死に探っていた」ことがどんどん明らかになっていることから、急浮上してきた説なのです。
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この記事の目次
長曾我部家と織田家の複雑な因縁!細かく見ていきましょう!
背後の事実関係を整理してみましょう!
(※以下の記述は、桐野作人『だれが信長を殺したのか。』(PHP新書)に拠っております)
織田信長は全国制覇を目指すにあたり、東国の伊達輝宗や九州の島津義久、大友宗麟らと連絡を取り、将来の布石を作っておりました。
「連絡を取る」というと穏やかですが、中央の覇権を固めていた織田信長らから「仲良くしよう」と連絡が来るということは、事実上、「オレが東国や九州にいずれ攻め込む際には、お前たちはさっさと服従しろ」といったような上から目線のもの。
これに対して、伊達家も島津家も大友家も、信長に気を使った返礼をしているあたりを見ると、地方大名たちも、もはや織田信長には逆らえないという認識だったということです。この頃四国において大躍進をしていたのは、土佐の長曾我部元親。彼もまた、織田信長の動向には気を使っておりました。
その長曾我部家にたいへんな吉報が入りました。
織田信長と交渉をすると、比較的スムーズに、「四国については、長曾我部が好きなように土地を切り取ってかまわない」という約束を取り付けることができたのでした。
ところが、本能寺の変の直前の頃、織田信長から、思ってもみなかった書状が届きます。
「長曾我部の領土は、土佐と阿波の一部のみとする」
かつての約束を完全に無視したこの態度豹変。
元親も、「あまりにも唐突で、ぶっちゃけ、困惑しております」というような率直な意見を述べております。
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いっぽうで長曾我部家と明智光秀には深い交流関係が!
長曾我部家にとっては青天の霹靂。ですが、織田信長という人間の気質を知っている人間には、「やはり来たか!」となるかもしれない話。おそらく信長としては、最初は四国にそんなに興味がなかったために、長曾我部の好きなようにさせようと思ったのでしょう。
それがいざ天下統一に王手がかかってくると、「長曾我部家が四国にあまりに巨大な版図を拡げてしまうと、いろいろジャマだな」と、気が変わったのでしょう。
とうぜん長曾我部元親は反発します。対する織田信長は、四国征伐のための軍備を着々と推進。「四国統一をあきらめて故郷の土佐に引っ込むか、それがいやなら全面戦争だ」という態度を見せつけます。
このとき長曾我部元親は、さまざまな外交ルートを使って、なんとかして織田家による四国侵略を回避しようと必死でした。
この長曾我部と織田との調停役を進めていたのが、明智光秀と、その家臣の斎藤利三だったのです。
実は斎藤利三と長曾我部元親の間には、婚姻を通した親戚関係があり、明智光秀は、この縁故をうまく使って、長曾我部と織田の仲を取り持とうと努力していたのです。
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ここで差がついてしまった?毛利を攻めた秀吉と長曾我部に近づきすぎた光秀
縁戚関係に義理を感じ、なんとか長曾我部と織田を和解させようとしていた明智光秀。
その彼にとって、信長が強硬に「長曾我部をつぶす」方針にてのひら返しをしてしまったことは、自らの外交努力を足蹴にされたということもあり、板挟みのストレスもあり、たいへんな苦悩だったでしょう。
ですがここで思い出されることがあります。
同じ頃、中国地方で対毛利家の外交をしていた秀吉は、信長が「毛利をつぶそう」という方針に切り替えると、いっさいさからうことなく、毛利攻撃にアタマを切り替えました。
ところが明智光秀は、長曾我部元親とその後も連絡を続け、なんとか長曾我部を救済しようとしているのです。外交相手に感情移入をしてしまった光秀と、外交相手を攻めろと言われればあっさり切り替えられる秀吉。残酷なようですが、後者のほうが「世渡り上手」であることは否めません。
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まとめ:長曾我部元親の黒幕説はどれだけ信憑性があるか冷静に考える
本能寺の変は、この長曾我部と織田の緊張関係がマックスに達した頃に勃発しました。この政変によって、織田信長による四国征伐はとうぜん中止になり、長曾我部家は九死に一生を得たのでした。
さあ、どうでしょう。最近の研究が示す、この明智-長曾我部の関係がわかってくると、いかがでしょう?
窮地に追いつめられた長曾我部元親が明智光秀に働きかけ、結託して本能寺の変に踏み切らせたというシナリオも、あり得そうと思えますよね?実際のところは、どうだったのか?
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戦国時代ライターYASHIROの独り言
残念ながら、これもまた、いくつもある「説」のなかのひとつにすぎない程度の信憑性とはいえそうです。長曾我部家がここで危機を脱したとしても、けっきょく、その後、今度は秀吉の四国征伐を受けているわけですし。
しかし、秀吉説とか、足利義昭説とか、いろいろと「誰でも思いつきやすい」黒幕説がある中で、ちょっと意外な人物、長曾我部元親の名前が出てきたというのは、地方大名好きにはなかなかたまらない、最近の研究展開といえるのではないでしょうか?
※参考文献:桐野作人『だれが信長を殺したのか。』(PHP新書)
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