鎌倉時代はどのように敵の首を獲っていた?作法とかあるの?【鎌倉殿の13人】

13/02/2022


北条時政

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」その第五話「兄との約束」では堤信遠(つつみののぶとお)を討ち取った北条時政が、うつぶせに絶命した信遠の首に刀を押し当て右足に体重を乗せて首を切断するグロテスクな場面が再現されました。そこで疑問ですが時政の首切断方法は歴史的に正しいのでしょうか?ちょっと調べてみました。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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首を獲るバリエーションは複数ある

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

敵の首を()って確かに殺害した証拠とするのは平安時代の中期には存在した習慣でした。天皇や公暁(こうぎょう)から賊の討伐を命じられた武士は、賊の首を切断し平安京に送り込む事で任務完了としていたのです。

 

武士が獲った賊の首は検非違使(けびいし)に引き継がれ獄門(ごくもん)にかけられて見せしめとされます。朝廷としても「朝敵となればこうなるぞ」と人々を脅す上で、生首は格好のPRの材料でした。

 

そんなわけで武士は手柄の証として敵の首を獲るのが習わしになりますが、一口に首を切断すると言っても、生きている敵を組伏せて強引に首を獲るのか、観念した敵の首を刎ねるのか、すでに死んだ敵の首を斬り落とすのでは、やり方に違いがありました。

 

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ながら日本史

 

 

死んだ敵の首を獲る場合

忙しくて過労で倒れる明智光秀

 

死んだ敵の首を獲るのは、相手が抵抗しないので一番簡単です。やりかたは色々あるでしょうが、鎧を着ていて、しゃがむのが面倒なら刀の切っ先を首の少し手前に突き刺して、裁断機(さいだんき)で紙を切るように刀身に体重を乗せてへし切ります。

 

ただ、人間の首には頸椎(けいつい)という七つの骨があるので、この骨と骨の隙間を狙って刀を入れないと骨にかかって一発では首が落ちません。しかし、時間さえかければ刀じゃなくても家庭にある文化包丁でも首を斬り落とす事は出来るそうです。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

暴れる敵から首を獲る場合

恩賞を北条時宗に必死にせがむ竹崎季長

 

では、暴れる敵から首を獲る場合にはどうするのでしょうか?この場合には、まずは相手を地面に叩き伏せる事が必要となります。敵を(あお)向けにして組み伏せて馬乗りになり、相手の利き腕を右足で抑えて動かなくし、まずは脇差で敵の喉笛をかき切って絶命させます。

 

次に脇差を持ち替え、兜の眉庇(まびさし)の裏面に添えて打った見上げの板と呼ばれる薄い鉄板を外して首を()き切るのだそうです。

敵が兜をかぶっていない時は、烏帽子を取って(もとどり)(ちょんまげ)を掴んで引っ張り、首を上げさせて脇差で首をスパッと斬り裂いて失血死させます。首を斬り裂いた瞬間、頸動脈から血がブシュっと吹きだし凄惨な光景なる事が絵巻物などから分かります。

 

この後は、死んだ敵の首を獲る手順とほぼ同じです。

 

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ほのぼの日本史Youtubeチャンネル

 

 

単独で首を狙うのは危険

平家を滅ぼした最大の功労者・源義経

 

しかし、生きている敵から単独で首を獲るのは賢明ではありません。

敵に馬乗りになり首を斬ろうとしている瞬間は、首を()る側も無防備だからです。

 

実際に小牧長久手(こまきながくて)合戦絵巻には、敵に馬乗りになり首を獲った武者が背後から別の武者に首を刺され絶命しているシーンが描かれています。

北条宗時 鎌倉

 

そのため、実際には生きている敵の首を獲る際には単独ではなく複数の人間が一斉に襲い掛かり役割分担をして首を獲っていたようです。鎌倉殿の13人でも堤信遠を討つのに、時政、宗時、義時の3人が関係していましたし、時政が首をへし切る時には、腰が引けていたとはいえ義時がそばにいました。

 

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落馬した敵将の首は斬りやすい

馬に乗り落ち延びる明智光秀

 

基本的に生きている敵の首はいきなりは狙わないものですが、例外もあります。それは乗馬している武者が落馬した場合です。

 

特に平安から鎌倉の上級武士の鎧は大鎧と呼ばれる豪華な鎧で防御力も高いのですが、重量も相当ありました。それでも馬上にいる間は鎧の重量は馬が背負ってくれていますが、落馬すると鎧の重さで大ケガをしたり、ケガをしなくても鎧の重さで起き上がる事が出来ず、ひっくり返った亀のようにジタバタする事になります。

 

このような敵は、生きてはいてもろくろく動けない良いカモであり、すぐに馬乗りになって動きを塞ぎ、首を獲る事も出来たのです。

 

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はじめての明治時代

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回は鎌倉時代の敵の首獲りについて書いてみました。

 

首獲り作法そのものは、平安時代には確立していて鎌倉も戦国も大差はありませんが、実際には暴れる敵から強引に首を獲るケースはあまりなく、絶命させ動かないようにして後に、おもむろに首を切断したケースが一番多いようです。

 

それが一番安全だし確実ですからね。ただ、それでは絵巻物にしても面白くないので、脚色として強引に敵の首を獲りにいく勇壮な武者を描いたのでしょう。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

 

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カワウソ編集長

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