NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人に登場する御家人の1人である土肥実平。ワガママ気ままな坂東武者の中では、控え目で良識のある人で、その分、坂東武者の不満の聞き役になり三浦義澄と共に仲裁にまわる事が多い損な役回りです。
しかし、事実はドラマより奇なり実際の土肥実平も仲裁する事が多い質実剛健な人でした。
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有力武士団中村党を率いた土肥実平
土肥実平は相模国の有力豪族、中村氏の一族で足下郡土肥郷を本拠地とし早川庄預所を勤め、父や弟の土屋宗遠と相模国南西部に中村党と呼ばれる有力な武士団を形成していました。
曽我物語によると安元2年(1176年)伊豆奥野の狩り場でおこなわれた河津祐泰と俣野景久の相撲の判定を巡り揉めた時、長老格だった実平が仲裁に入ったそうで相模・伊豆の武士社会において実平が重鎮と見なされていた事が分ります。大河ばかりでなく実際の実平も豪族同士のトラブルの仲裁をしていたんですね。
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頼朝の挙兵に従い中村党を率いて参戦
治承4年(1180年)源頼朝が挙兵すると実平は嫡男の土肥遠平など中村党を引き連れて参陣します。同じ相模や伊豆の豪族である鎌倉党や工藤党が内部分裂していたのに対して中村党は実平を中心に団結していた事から実平は特に頼朝の信頼を受けたそうです。
頼朝は、伊豆目代の山木兼隆を討った後、相模の三浦一族との合流を図って実平の領地である土肥郷に入っていますが、三浦勢は折からの暴風と大雨により酒匂川を手前に足止めされ、頼朝は石橋山で平家方の大庭景親の軍勢3000騎に奇襲を掛けられ壊滅。
僅か7~8騎の共と石橋山山中に逃げのびますが実平も中に加わっていました。
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頼朝に自害の仕方を伝授
愚管抄によれば、この時実平は、自害を覚悟した頼朝に自害とは何たるかという作法と故実を伝授したそうです。この逸話は大河ドラマで採用され、実平は熱心に頼朝に源氏の棟梁として恥ずかしくない自害の作法を教えていましたが、頼朝は「後でいい」と取り合いませんでした。
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再起を期して落ち延びる事を提案
実平は頼朝と行動を共にしたいと申し出た加藤景員や宇佐美祐茂に対して、大勢でいると平家の襲撃を受けたら一網打尽にされると反対。
「土肥郷は自分の領地で頼朝公1人なら命に代えても守ってみせるので、おのおの方は落ち延びて銘々生き延びて再起しましょう」と提案します。
結局、実平の提案が通り、最後まで残った7~8騎はバラバラに落ち延びていきました。
実平は敗戦の苦しい時期を常に頼朝の傍で支え、平家の落ち武者狩りをかわしつつ真鶴まで移動。そこから舟を調達すると房総半島の安房国に脱出します。実平の判断はナイスで、すでに衣笠城から脱出していた三浦一族と頼朝は海上で合流を果たして安房に上陸。
上総広常や千葉常胤のような反平家の有力豪族を味方につけて兵力は膨れ上がり鎌倉に入城して幕府を開くと、南関東から大庭や伊藤のような平家勢力を駆逐する事に成功しました。
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梶原景時や源義経を頼朝と結びつける
その後も実平は富士川の戦いや常陸国の志田義広討伐などに参加します。特に、富士川の戦いのあった夜、奥州から黄瀬川の頼朝の陣を訪れた源義経を取り次いで、頼朝と引き合わせたのは土肥実平であると吾妻鏡にはあります。
また、石橋山で頼朝を見逃した梶原景時が、頼朝に降伏した時、景時を取り成して御家人に引き立てたのも実平でした。
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鎌倉軍奉行として範頼、義経の参謀役を務める
寿永3年(1184年)実平は宇治川の戦いで源義仲を破り、同年2月の一ノ谷の戦いでは義経軍に参加。三草山の戦い後、実平は義経の一万騎から七千騎を率いて、一の谷西の手に進んでいます。
戦いが終わると、実平は備前、備中、備後の守護に任命され山陽道を平家の襲撃から守り、源範頼軍の九州上陸を支援します。実平は梶原景時と頼朝代官である範頼・義経の奉行として遠征軍に派遣されていて頼朝の信任が厚かった様子が窺えます。
壇ノ浦の戦いの後、実平は平宗盛の知行国だった長門国と周防国の守護となり、長府に居城を構えました。
実平は文治5年(1189年)奥州平泉の藤原泰衡討伐に参加。建久元年(1190年)に頼朝が上洛し右近衛大将に任命されると、随兵7人の内に選ばれる名誉を得ました。
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没年が不明な実平
幕府の建国の功臣となった実平ですが、建久2年(1191年)7月18日厩の上棟奉行をしたとする吾妻鏡の記述を最期に史料から姿を消します。一説では、義経との関係の深さから頼朝と義経の対立の影響を受けて政治的に失脚したとする説もあるそうです。
「沼田小早川家系図」によると実平は建久2年(1191年)11月25日死去とされ、上棟式からまもなく死んだとされます。また、「吾妻鏡」建久6年(1195年)7月13日には「土肥後家尼参上」と記録がある事から、1195年頃までには亡くなったとする説もあります。
しかし、所領があった安芸国沼田荘では、承久元年(1219年)に実平が息子の遠平とともに遠平の妻である天窓妙仏尼を弔うために棲真寺を創建した記録が残っており、その頃まで生存していた可能性があるそうです。
安芸国の米山寺過去帳によると実平は承久2年(1220年)11月死去とされていて、これらを総合すると実平の死は一番早くて建久2年(1191年)一番遅くて承久2年(1220年)と31年間も開きがあるようです。
ただ、1191年以降、吾妻鏡に登場しなくなる点を見ると、実平が何らかの理由で頼朝の信頼を失い、ことさら歴史書に記す必要もないほど影響力を落としたのは間違いなさそうです。
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日本史ライターkawausoの独り言
今回は、史実でも仲裁ばかりしている土肥実平を解説しました。ドラマでも自分本位の人が多い坂東武者ですが、史実でもそういう我の強さは健在で、実平のような人が重鎮として仲裁しないといけなかったんですね。
しかし、頼朝の信任を得た実平が何を原因として記録から姿を消してしまったのか、その点は気になる所です。
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