源頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか?その理由をズバリ解説【鎌倉殿の13人】

24/03/2022


鎌倉を拠点にした源頼朝

 

NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人、第八話「いざ鎌倉」では、ついに頼朝(よりとも)坂東(ばんどう)の御家人をまとめあげて鎌倉に入城するまでが描かれました。しかし頼朝はどうして数ある候補地から鎌倉を本拠地に選んだのでしょうか?

 

 

鎌倉は河内源氏の聖地だから

日本戦国時代の鎧(武士・兵士)

 

最初の理由は鎌倉が河内源氏にとって縁起がよい場所である点が挙げられます。元々鎌倉は桓武平氏(かんむへいし)棟梁(とうりょう)である平直方(たいらのなおかた)が本拠地としていましたが、河内源氏の二代目棟梁である源頼義(みなもとのよりよし)に娘を与えて同時に本拠地の鎌倉を譲りました。

 

五重塔(仏塔)仏教

 

頼義は河内源氏発祥の地、河内国壷井(かわちのくにつぼい)から源氏の氏神(うじがみ)である壷井八幡宮(つぼいはちまんぐう)を勧請して、鶴岡若宮に安置して信仰の場としているので本格的に鎌倉を拠点にするつもりだった事が分かります。

 

鎌倉仏像

 

以来、鎌倉は河内源氏の関東における拠点となったのです。さらに頼義が築いた鎌倉には頼朝の父である義朝(よしとも)が入って坂東武者との関係を強化した事もあり、関東を抑える上でこれ以上ない象徴的な場所になっていました。

 

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三方を山に囲まれ相模湾に面する守りやすい地形

 

源頼朝が鎌倉に入ったのは治承(じしょう)4年(1180年)10月の事でした。この頃の頼朝は平家を倒したわけでもなければ、ライバルの武田信義や源義仲を支配下に組み込んだわけでもなく、それどころか

 

1ヶ月半前には石橋山で絶体絶命の窮地に追い込まれた記憶も生々しい時期です。

 

源頼朝から信頼が厚い北条義時

 

現在は数万の兵力があるとはいえ、そんなものは一度の敗戦で簡単に飛び散ってしまうと熟知している頼朝としては、小数の兵で大軍を阻止できる拠点を求めたのは当然の心情でした。

 

鎌倉は三方を100m前後の山で囲まれ残る一面が相模湾に面した天然の要害で、山は標高が低い割には起伏が激しく守るに適した形になっています。また鎌倉に入る道は鎌倉七口(かまくらななくち)と呼ばれ、山を切り通した細い道になっていて大軍が横並びで通れない地形になっていて、少ない兵で防御する事に適していました。

 

鉄甲船

 

水軍さえちゃんとしていれば物資は海上から入れる事が出来るので、頼朝が飛びついたのも無理からぬ話です。

 

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はじめての平安時代

 

地形の改変が容易な鎌倉石の産地

藤原京(地図)

 

もうひとつ、あまり知られていない鎌倉の利点として、この地域の石が凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)と呼ばれる水をよく含み加工がしやすい柔らかい石であった点があります。狭い鎌倉には最盛期に10万人もの人々が生活していましたが、山を人力で削って宅地とし削った石を石垣にしたり、礎石に使用したりしていました。

 

このあたりの石は「鎌倉石(かまくらいし)」と呼ばれ、水を多く含む上に風化が早い事から(こけ)が生えやすく、古い石材に早く馴染む事から、禅宗の寺や住宅の素材として人気が高く鎌倉市や逗子市(ずしし)、藤沢市で採掘され日本中に輸出されていましたが、現在では採掘しすぎで景観を損ねるという理由で採掘が中止されています。

 

学問を極めて政治家へ成長した源頼朝

 

頼朝も鎌倉が大きくなると住宅地が必要になる事は承知していたでしょうから、加工しやすい柔らかい石を持つ鎌倉を選んだと考えられるでしょう。

 

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源頼朝

 

 

本当は鎌倉から出たかった?

伊豆へ島送りの刑となる源頼朝

 

鎌倉に拠点を置いた頼朝ですが、平維盛(たいらのこれもり)の平家追討軍を撃破した時点で勢いに乗って上洛しようとしていた事が分かっています。関東はほぼ平定し一瞬で粉砕される恐れが消えたので、そのまま坂東武士を率いて平家を滅ぼそうと考えたのです。

 

しかし、それに対して激しく異を唱えたのがほかならぬ坂東武士でした。

 

上総広常

 

上総広常(かずさのひろつね)のような大豪族は上洛よりも、常陸国の佐竹氏のような平家に味方している武士や奥州の藤原氏に備えるべきだと主張し、頼朝自らが上洛軍を率いる事に反対します。

 

常に北条家に監視される源頼朝

 

頼朝の軍事基盤は坂東武者であり、そっぽを向かれては困るので頼朝は上洛を諦め、結局は北陸道を支配した源義仲の上洛を許してしまいました。ただ、自分は出陣しないかわりに異母兄弟の源義経や源範頼(みなもとののりより)に坂東武者を率いさせて代理として平家や朝敵となった義仲を征伐させています。

 

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源義経

 

 

朝廷を警戒し鎌倉を二元政治の拠点とする

朝廷(天皇)

 

義経や範頼の活躍で平家を滅ぼし、さらに奥州藤原氏を滅亡させた頼朝は建久元年(1190年)に念願の上洛を果たしますが、その頃までには考えが変わり朝廷とは距離を置いて、鎌倉に武家の政権を樹立する事にし二元政治を開始します。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

朝廷とは協調関係とはいえ、状況が変化すればどうなるか分からないので、今度は朝廷が西国の武士をまとめて攻め込んでくる事を警戒し、鎌倉の防備を固める事になります。

 

頼朝の死後、実際に北条義時(ほうじょうよしとき)を追討する承久の乱(じょうきゅうのらん)が起こりますが、鎌倉幕府内部でも鎌倉に籠城して後鳥羽上皇軍を迎え撃つとする意見も出ていて、主流派であったので頼朝の時代から天皇の追討軍を迎え撃つ構想はあったのでしょう。

 

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北条義時

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

今回はどうして頼朝が鎌倉に幕府を開いたのかについて解説しました。

 

最初は平家の追討軍や甲斐源氏の武田信義などを警戒し防御に優れた鎌倉に拠点を置いた頼朝ですが、もし坂東武者が平家追討の上洛に反対しなければ、そのまま京都に滞在して平家のようになり鎌倉には息子を派遣して鎌倉公方として統治させ、鎌倉が首都になる事はなかったかも知れませんね。

 

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