上総広常とはどんな人?頼朝に恐れられ頼りにされた有力御家人【鎌倉殿の13人】

27/01/2022


何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

上総広常(かずさひろつね)は石橋山の戦いで敗れ房総(ぼうそう)で再起を図った源頼朝の前に2万騎という大軍で出現し、頼朝が南関東を平定し鎌倉に拠点を定めるのに多大な功績がありました。

 

上総広常

 

しかし、そんな広常もやはりワガママな関東武士であり、頼朝の方針に平気で異を唱えて振り回し、ついには誅殺(ちゅうさつ)という憂き目を見る事になります。今回は平安末期のちょい(わる)武士、上総広常を解説しましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

姉妹メディア「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

yuki tabata(田畑 雄貴)おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、姉妹メディア「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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両総の事実上の支配者として登場

 

上総広常の上総氏は上総介(かずさのすけ)上総権介(かずさごんのすけ)として、代々が上総と下総の二カ国に大きな勢力を持っていました。ちなみに上総と下野は親王任国(しんのうにんこく)で親王は国守となっても遙任(ようにん)で京都から出向かないので両総(りょうそう)では介が事実上の最高ポストで上総氏が国府の長官でした。

 

源義朝

 

さて、上総広常は鎌倉を本拠地とする源義朝(みなもとのよしとも)の郎党として保元(ほうげん)元年(1156年)の保元の乱では義朝に従い、平治の乱では義朝の長男である源義平(みなもとのよしひら)に従い活躍します。しかし平治の乱で源義朝は大敗、平家の探索をかいくぐり戦線を離脱し領地に戻りました。

 

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平家の圧迫に苦しむ

平清盛 鎌倉幕府

 

義朝が死んで河内源氏が衰退し平清盛の伊勢平氏が勢力を伸ばすと平家に従いますが、父の常澄(つねすみ)が死去すると嫡男の広常と庶兄(しょけい)常景(つねかげ)常茂(つねもち)の間で上総氏の家督を巡る内紛が起こります。

 

治承3年(1179年)11月に平家の有力家人伊藤忠清(いとうただきよ)が上総介に任ぜられると広常は国務を巡り忠清と対立、激怒した平清盛に勘当されます。

 

公家同士の会議(モブ)

 

「あれ?広常と清盛って親子関係なの?」と思い調べてみると、広常は大納言平時忠(だいなごん・たいらのときただ)の子で上総国に流罪になった平時家(たいらのときいえ)娘婿(むすめむこ)として迎えていました。

 

忙しい方にざっくり解答02 kawausoさん

 

平時忠は清盛の後妻、平時子(たいらのときこ)の弟ですから、時忠の子、時家は、清盛の甥にあたり、その甥の父、上総広常は清盛の義叔父にあたっています。だから清盛は広常を勘当する事が出来たんですね。地味に平家一門になっている広常、食えない人物のようです。

 

 

広常の困難は伊藤忠清ばかりではなく、平家姻戚、藤原親政(ふじわらちかまさ)が上総国に勢力を伸ばそうとするなど、平家とはトラブルを抱えていました。

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

頼朝の再挙兵に呼応し配下になる

 

治承(じしょう)4年(1180年)伊豆の流人(るにん)だった源頼朝は8月に打倒平家の兵を挙げ、伊豆の国衙を陥落させました。

 

大庭景親に敗れる源頼朝

 

しかし、直後の9月、味方の三浦一族と合流しようとして酒匂川(さかわがわ)に向かう途中、石橋山で平家家人(へいけ・けにん)大庭景親(おおばかげちか)伊東祐親(いとうすけちか)の軍に大敗します。

 

大庭景親に敗北し洞窟に隠れる源頼朝

 

 

窮地の頼朝ですが、敵方の梶原景時(かじわらかげとき)飯田家義(いいだいえよし)のお陰で包囲をかいくぐり、船を仕立てて房総半島に渡りました。

 

源頼朝軍の最強助っ人 上総広常 参戦

 

これに呼応して広常は上総国内の平家を掃討、又従兄弟(またいとこ)千葉常胤(ちばつねたね)と共に2万騎の大軍を率いて頼朝の下に参陣します。

 

吾妻鏡の表紙 表紙

 

 

吾妻鏡(あずまかがみ)では広常が二心(ふたこころ)を持ち頼朝の器量が悪いなら首を獲り、娘婿の時家を擁立して平家につこうと考えていたものの、頼朝の力量が想像以上で感服して配下になったと書いています。

 

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富士川の戦いの後、上洛しようとする頼朝を制止

水鳥の羽音に驚いて敗走した平維盛

 

頼朝は南関東の豪族を従え、富士川(ふじかわ)の戦いで甲斐源氏の武田信義(たけだのぶよし)と連携、平家追討軍の総大将、平維盛(たいらのこれもり)を敗走させた後、京都へ上洛しようとします。

 

軍議(日本史)モブa

 

しかし、上総広常は猛反対し、常陸源氏(ひたちげんじ)の佐竹氏討伐が先だと息巻きました。佐竹氏は平家に接近しており、排除しないと安心して上洛出来ないと考える関東武士団も多く、頼朝は方針転換して上洛を延期し金砂城(かなさ)佐竹秀義(さたけひでよし)を攻めて敗走させます。

 

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横暴だった広常

源頼朝に対等な口をきく上総広常

 

吾妻鏡によると上総広常は頼朝の部下でも飛びぬけて大きな兵力を持ち、無礼な態度が多く、頼朝にも臣下の礼を示さずに対等に口をきいたり、他の武士にも横柄(おうへい)な態度で接し、頼朝が下賜した水干(すいかん)を巡り岡崎義実(おかざきよしざね)と殴り合いの喧嘩に及びそうになるなど和を乱す事が多かったようです。

 

超絶横暴だった上総広常

 

ただ、吾妻鏡は鎌倉時代後期の編纂で、広常が頼朝に誅殺された後の編纂なので頼朝を正当化しようと事実を盛っている可能性はあります。

 

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47都道府県戦国時代

 

 

梶原景時に殺害される

源頼朝に誅殺される上総広常

 

寿永2年(1183年)12月、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時と天野遠景(あまのとおかげ)に命じ、景時と双六に興じていた最中、景時が双六盤を乗り越え、広常の首を斬り裂いて誅殺しました。広常の嫡男能常(よしつね)は自害し、上総氏は所領を没収され千葉氏や三浦氏に分配されます。

 

謀反の意思がなかった上総広常を誅殺したこと後悔した源頼朝

 

この後、広常の鎧から願文(がんもん)が見つかりますが、そこには謀反を疑わせる文章はなく、頼朝の武運を祈る文章だったので、頼朝は広常殺害を後悔、即座に広常の又従兄弟、千葉常胤預かりの一族を赦免しますが、広常死後は千葉氏が房総平氏の当主を継承しました。

 

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上総広常、誅殺の理由は?

朝廷(天皇)

 

上総広常誅殺の理由は、態度がどうのこうのと言うよりも、広常が関東独立を主張して、頼朝の上洛に不信感を持っていたからであるようです。

 

同時代の天台宗の僧侶、慈円(じえん)の書いた愚管抄(ぐかんしょう)によると、頼朝が後白河法皇(ごしらかわほうおう)と初めて対面した際に、上総広常を殺した理由として、「広常は、関東が独立して活動するのをどうして朝廷に止める権利があるのかと(うそぶき)き、朝廷に未練たらしく気を遣わず関東で独立すればよいと度々、吹聴(ふいちょう)していたので誅殺した」と語ったそうです。

 

また、別の説では、広常は以仁王(もちひとおう)の遺児である北陸宮(ほくろくのみや)が東国に逃れた時に、北陸宮を擁立して上洛しようとする意図があり、決して反朝廷ではないものの、後に北陸宮を擁立して上洛した源義仲に広常が接近する事を恐れた頼朝が誅殺に及んだとの見方もあります。

 

ダークサイドに堕ちた源頼朝

 

いずれにせよ、広常は鎌倉政権で強大な勢力があり、御家人にも影響力が強く、頼朝は自分とは政治方針の違う広常を放置できなかったというのは真実なのでしょう。

 

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ながら日本史

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

鎌倉殿の13人では佐藤浩市が演じる上総広常について解説しました。

 

源頼朝を武衛と何度も連呼する上総広常

 

広常は、人間としては度胸と包容力と時勢を見抜く目があり、いざという時に頼れる存在ながら、同時に野心からくる山っ気があり、何食わぬ顔で主を両天秤にかけるなど、頼朝が心休まらない部下として、上総広常は佐藤浩市が演じるのにピッタリだと思います。

 

あの時折見せる悪い顔で視聴者を楽しませてくれる事でしょう。

 

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