千葉常胤とはどんな人?上総広常と双璧。強く賢い坂東武者の生涯【鎌倉殿の13人】

23/03/2022


鎌倉殿13人 北条義時

 

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、上総広常(かずさのひろつね)の盟友として登場した千葉常胤(ちばのつねたね)

 

千葉常胤 鎌倉

 

枯れた古武士という風格で穏やかな物腰に見えながら、頼朝に自分が斬り落とした目代(もくだい)の首を手土産にもってくるなどバーサーカーの一面も持っています。では、実際の千葉常胤はどういう人物だったのでしょうか?

 

 

 

坂東八平氏千葉氏の2代目として誕生

下総

 

 

千葉常胤は桓武平氏良文流(かんむへいし・よしふみりゅう)千葉氏(ちばし)の一族で元永(げんえい)元年(1118年)に誕生します。

 

出身母体である千葉氏は平忠常(たいらのただつね)の子孫の常長(つねなが)が現在の千葉氏緑区に本拠地を置いた所から始まり、その後、一族が現在の千葉県北部である下総に進出し、やがて千葉氏と上総氏に分家しました。

 

千葉常胤の父は千葉常重で彼が千葉氏の初代で常胤は2代目です。

さて、父の常重は、白河法皇に荘園(しょうえん)を寄進するなどして、中央とのパイプを造りつつ、大治(たいじ)5年(1130年)所有していた相馬郷を伊勢神宮に寄進してその下司職(げすしょく)となります。下司というのは、人品の卑しい人ではなく地元で荘園を管理するノンキャリアの意味です。

 

日本史 小判(お金)

 

荘園を寄進すると言っても全権利を差し出すのではなく、伊勢神宮に収穫の何割かを出し何かトラブルがあった時には守ってもらう契約です。このような荘園を寄進地系荘園(きしんちけいしょうえん)と言い、この時代には多く存在しました。

 

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荘園を巡るトラブル

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しかし、保延(ほうえん)2年(1136年)下総守藤原親通(しもうさのかみ・ふじわらのちかみち)は、相馬郡の公田(こうでん)から税金が納められていないという理由で常重を逮捕監禁(たいほかんきん)。釈放する代わりに常重から相馬郷(そうまのさと)立花郷(たちばなのさと)の両郷を取り上げて税金の代わりにするという内容の証文を書かせて奪い取ります。

 

源義朝 鎌倉殿の13人

 

さらに康治(こうじ)2年(1143年)源頼朝の父である義朝も介入。常重から相馬郡の証文を武力で奪い取りました。ところが奪い取ったものの義朝は伊勢神宮の天罰を恐れ、天養2年(1145年)それを伊勢神宮に寄進する避文(さりぶみ)を出します。避文は土地の権利を放棄する文書であり、義朝は自分が荘園を千葉氏から奪った事を伊勢神宮に悪く思われたくなかったようです。

 

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はじめての平安時代

 

 

慎重で世慣れた常胤

京都御所

 

保延元年(1135年)、18歳で父から家督を継いだ常胤は、相馬御厨(そうまみくり)の荘園を巡り、際立った手腕を発揮します。

 

普通、このような場合「最初から税金の未納などはない!あれは陰謀だ」等と主張して問題をこじらせそうなものです。しかし常胤はそうはせず久安2年(1146年)下総国衙に大人しく未納の税金を支払い相馬郡司の地位を回復。

 

そして「税金を支払ったので相馬御厨は返還して下さい」と正論を言い、相馬御厨を手に入れます。

 

五重塔(仏塔)仏教

 

こうして相馬御厨を取り返した常胤は、改めて、源義朝の避文を撤回させ伊勢神宮に寄進しました。常胤はこの世は武力だけでは動かない事を熟知し、多少損しても理詰めで物事を動かし、見事に荘園の問題を解決したのです。

 

内容に納得がいかないkawauso様

 

族従兄弟(ぞくいとこ)にあたる千葉広常に比較し地味な常胤ですが、実際には頭脳明晰であり、腕力だけの義朝とは大違いである事が分かります。

 

朝廷(天皇)

 

その後、千葉常胤は保元の乱で出陣し源義朝の指揮下で戦います。ここだけ見ると常胤は義朝と和解したように見えますが、保元の乱では後白河天皇(ご・しらかわてんのう)の官符により地方の武士が出陣しているので、常胤が義朝に恩義を感じていたかどうか断定は出来ません。

 

しかし、その後、配流されてきた源氏の大長老、源義隆(みなもとのよしたか)の生後間もない赤子を大事に育てて立派な武人として成長させた記述があるので、どこかで和解らしきことがおこなわれた可能性もあります。

 

 

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はじめての鎌倉時代

 

 

佐竹義宗と相馬御厨を巡り裁判になり敗訴

常陸国

 

平治の乱で源義朝が敗死した後、永暦2年(1161年)常陸国の佐竹義宗(さたけのよしむね)が前の下総守藤原親通(しもうさのかみ・ふじわらのちかみち)から常胤の父、常重の証文を手に入れました。義宗は親通の子、藤原親盛(ふじわらのちかもり)と手を組んで再び相馬御厨の所有権を主張して伊勢神宮に相馬郷を寄進します。

 

これに気づいた常胤も翌月に再度、御厨を伊勢神宮に寄進する意向を示しました。対立は法廷闘争となりますが、伊勢神宮は佐竹義宗の訴えを認め仁安2年(1167年)には和与状(わよじょう)が出されます。和与とは、今後、相馬御厨の所有を巡っての訴えを受理しないという裁定であり、常胤の完全敗北でした。

 

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

以後、常胤は佐竹義宗を激しく恨み、両者は(いさか)いを繰り返す事になります。この頃、平治の乱で敗れた源氏の長老格、源義隆の生後50日の子が下総に流されてきました。常胤は子を監視しつつも、源氏への旧恩から大切に育てたとされ、義隆の子は成人して源頼隆と名乗りました。

 

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安達盛長の誘いに乗り源氏に加勢

安達 盛長 鎌倉殿の13人

 

治承4年(1180年)伊豆国で挙兵した源頼朝は、石橋山の戦いで敗れた後で安房に逃れます。そして自分の使者として安達盛長(あだちのもりなが)を派遣し千葉常胤に味方になるように説きました。

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吾妻鏡ではこの時、息子の胤正(たねまさ)胤頼(たねより)が盛長の言葉を常胤に伝えるものの、常胤は何も返事をせず眠ったように目を閉じていたとし、痺れを切らして息子達が「父上、お言葉を」と急かすと常胤は

 

常に北条家に監視される源頼朝

 

「もちろん賛成だが、平治の乱以来、頼朝殿の苦労を思えば感涙で言葉も出ないのだ」と答えたとされます。かなりの美談ですが、実際の常胤は頼朝の父の義朝に荘園を横領され、平治の乱でも義朝についていないので、本当にこんなやりとりがあったのかは疑わしいでしょう。

 

しかし常胤には、仇敵の常陸佐竹氏が平家に味方していて、源義隆の遺児を養育しているなど、頼朝に味方する大きなメリットもあり一族300騎を率いて下総国府に赴いて頼朝に参陣します。立派に成長した源氏の遺児を頼朝に見せると、頼朝は深く感謝し、以後は常胤を父とも思うと述べています。

 

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源頼朝

 

 

広常死後は坂東の重鎮として活躍

軍議(日本史)モブb

 

その後の常胤は源氏軍の与力として活躍。富士川の戦いで平家追討軍が敗れて逃げ帰ると、上洛を逸る頼朝に対して、関東には平家に(くみ)している常陸の佐竹氏が残っているとして、上総広常などと共に上洛に反対し佐竹討伐を進言。

 

坂東武者の信用を得なければ上洛どころではない頼朝は進言を入れて常陸佐竹氏の討伐を開始し、常胤は奪われた相馬御厨の奪還に成功します。

 

上総広常

 

寿永2年(1183年)坂東一の大豪族、上総広常が謀反の疑いを掛けられて誅殺されると、常胤は千葉氏を率いて坂東武者の中心になりましたが頼朝を支える基盤は外戚の北条氏や比企氏へシフトしていき、千葉氏の威信は相対的に低下してきました。

 

長安(俯瞰で見た漢の時代の大都市)

 

すでに老齢の常胤でしたが、元暦元年1184年には源範頼軍に属して一ノ谷の戦いに参加し、その後は九州に渡り軍功を挙げました。平家滅亡後、文治3年(1187年)には洛中警護のために上洛。さらに奥州合戦にも参加し東海道方面の大将となり、奥州各地に所領を獲得します。

 

鎌倉幕府を開くが急死した源頼朝

 

常胤は80歳を越えて長生きし、頼朝より長く生きて建仁(けんにん)元年(1201年)84歳で死去。しかし、常胤死後の千葉氏は主家に幼君が続き、分家の勢力が強くなるなど抗争が相次ぎ、一部は奥州で相馬藩を起こすなどしますが、かつての繁栄を取り戻す事は出来ませんでした。

 

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北条義時

 

 

どうして千葉常胤は生き残った?

鎌倉仏像(仏教)

 

さて、大河ドラマでは討ち取った目代の首を頼朝に見せようと首桶に入れて持参し、頼朝にウザがられていた常胤ですが、実際には領地の街道を整備して都市計画を立て、一説には鎌倉の都市設計には常胤のアイデアが入っているとも言われています。

 

典型的なナメられたら殺すの上総広常に比較し常胤は広範な素養を持ち、京都の文化にも精通していて、それゆえに頼朝の歓心を買い続ける事ができたのかも知れません。実際、相馬御厨の横領に対する常胤の大人な対応を見ていると、そのような仮説もアリエナイ話ではないと思えるのですがどうでしょうか?

 

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源義経

 

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

鎌倉殿の13人では岡本信人(おかもとのぶと)さんが演じ、いかにも古風な坂東の武者の(たたず)まいの千葉常胤。しかし、実際の常胤は文武両道で行政に関しては鎌倉の都市計画にアドバイスをするなど非常に洗練された人物である可能性が浮上しています。

 

生涯、坂東武者を頼りにしつつも田舎者と見下し続けた頼朝が常胤を排除しなかったのは、案外そういう世慣れた部分が原因かも知れませんね。

 

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