NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人第36話「武士の鑑」では、いよいよ畠山重忠が最後を迎えます。鎌倉の民の間では早くも重忠ロスがささやかれていますが、今回は複雑な畠山重忠の乱を分かりやすく時系列で解説します。
この記事の目次
最初は口喧嘩から始まった畠山重忠の乱
元久元年(1204年)11月4日、京の平賀朝雅邸で3代将軍実朝の正室、坊門信清の娘を迎えるために上洛した鎌倉御家人に対し歓迎の宴が開かれます。
その酒宴の席で畠山重忠の嫡男重保と平賀朝雅との間で言い争いが起きました。何を巡って口論が起きたかは不明ですが、言い争いは周囲が仲裁に入って収まります。しかし、これが畠山重忠の乱の遠因になりました。
重忠の地位は呪われていた!
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平賀朝雅と畠山重保の関係
平賀朝雅と畠山重保には直接の血縁はありませんが、重保の父、畠山重忠は執権北条時政の先妻の娘を妻にしていて、時政は義父に当たります。平賀朝雅も、時政の後妻、牧の方の娘を娶っていて時政は義父でした。
ただ、時政は牧の方との間に生まれた息子や娘を優遇し平賀朝雅との関係も良好、逆に先妻の娘を娶った畠山重忠とは疎遠になっています。この血縁のバランス関係も乱に影響を与えます。
また、北条時政は武蔵守でしたが武蔵国は畠山重忠の地盤で、土地の御家人を動員するのに支障をきたし、重忠が邪魔になってもいました。
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執権時政は畠山父子を勘当するが後に和解
元久元年(1204年)11月5日、重保と共に上洛していた北条時政と牧の方の子北条政範が突然死去します。鎌倉には政範の埋葬と重保と朝雅の言い争いの報告が同時に届きました。
執権、北条時政は口論を起こした件で、畠山重忠と重保を勘当しますが、翌年の正月、千葉成胤のとりなしで両者は和解します。ところが、和解は表面だけの事でここから鎌倉には不穏な空気が流れ始めました。
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元久2年4月御家人に動員がかかる
元久2年(1205年)4月11日、鎌倉に不穏な形勢ありとして御家人が鎌倉に続々と集結します。執権時政は娘婿で所領の武蔵国に隠居していた稲毛入道重成を呼び重成は郎党を引き連れてやってきました。
しかし、この時の騒ぎは一ヶ月足らずで収まり、5月3日には大半の御家人が帰国します。
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6月21日、畠山重忠討伐の命令が下る
6月21日、平賀朝雅は畠山重保に悪口を受けたと牧の方に讒訴、牧の方はこれを重忠父子の謀反と事実をまげて時政に訴えます。
時政は息子、北条義時と時房を呼び、畠山討伐を相談しますが、義時は「畠山は時政の娘を娶った一族で頼朝公の信頼も厚かった立派な武士で謀反は考えられない」と反対。
ところがここで、牧の方の兄、大岡時親に「牧の方が実母ではないから、ここで仕返しをしようと考えている」と迫られ義時と時房は畠山討伐に同意しました。
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6月22日、畠山重保を騙し討ち
翌6月22日、鎌倉に御家人の大軍が集まり謀反人を討伐するとして由比ヶ浜へと移動していきます。畠山重保は、同族、稲毛重成に招かれて鎌倉に来ていました。重保は謀反人討伐だけを聞かされたので御家人の努めとして郎党3名を従え由比ヶ浜に急行します。
由比ヶ浜には時政の命令を受けた三浦義村がいて、部下の佐久間太郎らに重保を包囲させました。重保は自分が謀反人認定された事を悟り奮戦し抵抗しますが、僅か3名ではどうにもならず殺害されます。
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畠山重忠、偽命令で鎌倉に急行
少し前、時政は武蔵の所領に帰っていた重忠に「鎌倉で大事件が起きたので急いで来るように」と伝令を出しました。急な呼び出しで重忠は軍勢を集めるヒマがなく僅か140騎で鎌倉目指して馬を走らせます。
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数万の御家人が畠山重忠を討つために集結
時政は、鎌倉に向かってくる重忠を途中で討つため、数千から数万ともされる兵力を集め勇者である重忠を数の力で滅ぼそうとします。
この時に参加した主な御家人は、総大将、和田義盛、北条義時、北条時房、以下、三浦義村、結城朝光、八田知重(知家の子)安達景盛(盛長の子)など錚々たる面々でした。
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二俣川の戦いで重忠討ち死に!
重忠は6月19日に本拠地の菅谷館を出発し、6月22日午後、二俣川で討伐軍に遭遇します。
この時、重忠が率いていたのは、次男の重秀と郎従本田次郎近常、乳母父の榛沢六郎成清等で130~140騎でした。重忠は、嫡男の重保が殺された事と自分に追討軍が向けられた事を初めて知ります。
重忠は、屋敷に戻って防戦する事を拒否し、潔く一戦して潔白を証明するのが武士の道であるとして、数千から三万騎とも言われる幕府軍を迎え撃ちます。
そこにかつての旧友、安達景盛と主従七騎が先陣を切って突入、ここから重忠は劣勢をものともせず4時間余りも激戦を繰り広げ、最後は愛甲季隆の放った矢に討たれて落馬、首を獲られました。享年42。父の死を見た息子の重秀以下は自害したとされます。
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北条義時、重忠は無実だったと時政に報告
6月23日、午後2時頃、軍勢を鎌倉へ引き上げた総大将義時は、合戦の様子を聞いた時政に対し、「重忠一族は出払って小勢であり謀反の企ては虚報でした。無実で死んだ重忠の首を見ると涙を禁じ得ず、大変気の毒な事をした」と報告します。
時政は不快そうでしたが黙って引き下がりました。
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トカゲの尻尾切りで稲毛父子、榛谷父子を誅殺
そしてこの日の夕刻、さらなる胸クソ展開が待っていました。
重忠と同じ秩父氏でありながら討伐軍に加わった稲毛重成父子、榛谷重朝父子が無実の重忠を罪に落したとして三浦義村等に誅殺されたのです。
実際の首謀者は執権時政で、稲毛重成などは武蔵国で出家し隠居していたのを、時政に呼び出されただけですが、トカゲの尻尾切りで始末されたわけです。
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畠山重忠の所領を山分けする北条政子
7月8日、尼将軍北条政子は、畠山氏の所領を勲功として御家人に分配。同20日にも政子の女房たちに重忠の遺領が与えられました。全く合戦と関係ない御所の女房にも、政子が畠山の所領を分け与えた様子を見ると畠山氏を邪魔だと感じていたのは、時政だけではないような気がします。
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御家人の恨みを受け、失脚する北条時政
しかし、無実の畠山重忠を殺した事で執権時政は、御家人の恨みを買い、北条義時と政子の姉弟により牧の方ともども鎌倉を追放されます。そして、京都の平賀朝雅も新執権義時の命令で誅殺されました。
残された重忠の所領は、時政の娘である重忠の妻に安堵され、妻はその後、足利義純に再度嫁ぎ、義純が畠山氏の名跡を継いだことで、平姓秩父氏の畠山氏は滅亡します。
その後、出家していた重忠の末子、重慶も北条氏に誅殺され畠山氏は文字通り「族滅」されてしまったのです。
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畠山重忠の乱の結果
畠山重忠の乱では、とかく北条氏の卑劣な騙し討ちにより重忠父子が討ち死にした事がクローズアップされますが、重忠の死の翌日に、同じく秩父氏の稲毛氏や榛谷氏が三浦氏に滅ぼされた事も重大な意味があります。
これにより、畠山氏、稲毛氏、榛谷氏が排除された武蔵国は北条氏が支配する土地となり、代々の北条氏執権が武蔵守を名乗る北条氏の重要な拠点となるのです。
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日本史ライターkawausoの独り言
北条氏に陥れられ殺された御家人には共通点があります。いずれも武蔵や相模の豪族で、後に北条氏の直轄支配地に地盤を置いていた人々なのです。
それ以外に基盤がある御家人、例えば常陸の八田氏や下野の足利氏などは、何の因縁も吹っ掛けられていませんので、畠山重忠の不幸は武蔵国に領地を持った事という事になるかも知れません。
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