それにしても、つくづく思うこと。こんなにドラマチックな「史実」は、世界史上でも珍しいのではないでしょうか?
というのは、源頼朝と平清盛の関係のことです。平治の乱のとき、源頼朝は13歳。父義朝の軍勢にて初陣を飾るも、結果としては、義朝勢は敗北。父の源義朝は脱出先で暗殺され、頼朝は尾張に逃走中のところを捕らえられてしまいます。
しかしここで、池禅尼の助命嘆願のおかげで、頼朝は命を取られずに済み、処罰は伊豆への配流となります。まさか、その頼朝が、大人になってからその伊豆を拠点に挙兵をして、最終的には平清盛の息子たちや孫たちを壊滅させ、平氏を滅亡に追い込むとは!
頼朝自身も13歳の段階では、夢にも思わなかった展開でしょう。平清盛も、まさかそんなことになると夢にも思わなかったはずですし、それは助命嘆願した池禅尼も同じだったでしょう。まるでギリシャ悲劇やシェークスピア悲劇のような、あまりにドラマチックな宿命!
ですが、ここでひとつ、仮定を措いてみましょう。もし清盛が頼朝を13歳のうちに殺していたら、いったいどうなっていたかと。
この記事の目次
源頼朝が死んでいても源氏は挙兵したかもしれないが、他のリーダーと頼朝には決定的な違いが!
もし平清盛が源頼朝を13歳の時点で殺していたら?
まず、当然ながら、後年の「鎌倉殿頼朝」の挙兵はありません。この場合、平氏は滅ぼされずに済んだでしょうか?
これは何とも言えません。源頼朝が挙兵するよりも前の段階から、平氏を巡る権力構想はもろもろ荒れており、後白河法皇や、南都奈良の仏教界など、反清盛の勢力は着実に動いていたからです。そして肝心の「反平氏」勢力の枢軸、源氏の中でも、木曾義仲に代表されるように、頼朝以外にも頭領に担がれるホープは何名か、おりました。
よしんば頼朝が少年のうちに殺されていたとしても、時機が巡ってきた際には、誰か別のリーダーが源氏の頭目として立ち、源平合戦は始まっていたことでしょう。
ただし!
源頼朝には、他の源氏系のリーダー候補たちにはない、圧倒的な能力がひとつありました。この能力ゆえに、あの平清盛がいくら偉大であっても、平氏は頼朝に対してどんどん劣勢に立たされることになったのです。
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「運のよさ」も能力のひとつだとすれば源頼朝は日本史上最強の怪人である!
それは、異常なほどの、源頼朝の「うんのよさ」です。
・石橋山の合戦で平氏軍に惨敗しても、後一歩のところで「うんよく」逃げてしまう。
・平氏追討の軍勢を組織しているという最高のタイミングで、「うんよく」弟の源義経が現れる。
・先んじて挙兵した木曾義仲が「うんよく」狼藉三昧で勝手に自滅している
そして、トドメとなるのが、
・頼朝にとって最高のタイミングで平清盛が高熱に倒れる。
と、こう並べていくだけで、源頼朝はもはや何か人外のモノが取り憑いているかのような幸運児であることがわかります。そして「運も才能のうち」とするならば、これほどの幸運児である頼朝を生かしておいたことは、清盛痛恨の失敗だったのではないでしょうか。
頼朝以外の源氏方のリーダーたちであれば、このような異常なツキに守られていたとは思えず。すなわち、日本史上最大のラッキーボーイ頼朝さえいなければ、平氏はあんなにもあっけなく倒れることはなく、もう十年くらいはねばれたのではないでしょうか。
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かといって実は清盛は頼朝を殺すことも難しかった?
いっぽう、清盛が13歳の時点の少年頼朝を殺していたとしたら?
そのほうが平氏にとってはメリットだったのでしょうか?
何か平氏にとってのデメリットは、なかったでしょうか?
まず、それをやってしまっていたら、助命嘆願した池禅尼と清盛の仲に亀裂が走ります。それだけなら大したことはない、と思うかもしれませんが、実はこの助命嘆願には、陰で後白河法皇が噛んでおりました。
もちろん、後白河法皇も、いずれ頼朝が反平氏の挙兵をしてくれるなどと読んで助命に加わっていたわけではないでしょうが、もしここで清盛が頼朝を殺してしまえば、せっかく介入してきた後白河法皇の面目を潰す形になっていました。
その場合、平清盛の決裂がもっと早い段階で決定的になります。すなわち、後白河法皇の反平氏工作がもっと早くから始まってしまった可能性があります。安徳天皇誕生前のこのタイミングでは、平清盛にとって、後白河法皇と決裂することはマズかったはずでしょう。となると、けっきょく、平清盛は源頼朝を生かすしか選択肢がなかったのかもしれません。少年源頼朝一人の命すら、案外、平清盛ひとりの手で摘み取るわけにもいかなかった、とも考えられます。
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ということは「平清盛に殺されなかった」時点で頼朝の「うんのよさ」は発動開始していた?
まとめますと、もし、源頼朝を少年のうちに殺していたら?
あの異常な「うんのよさ」をもった人物が源氏の頭領になることはなく、平氏にとって源平合戦の対応はもう少し楽だったかもしれません。しかし、見てきた通り、実際には平清盛は少年の頼朝を殺す判断も、なかなか難しい政治的状況だったようです。
となると、恐ろしいことに気が付きます。
「平清盛が殺そうと思っても、後白河法皇や池禅尼が『なぜか』助命嘆願を思いついて働きかけてきた」という時点で、もしかしたら源頼朝の怪能力、「うんのよさ」が既に能力として発動し始めていた、ということなのかもしれません!
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