徳川家康の元の名前が松平元康であった事はご存知の方も多いでしょう。しかし、どうして松平元康から徳川家康に改名したのかは知らない方も多いかも知れません。そこで今回は家康改名の理由を簡単に解説します。
この記事の目次
松平元康とはどういう意味なのか?
徳川家康の幼名は竹千代と言います。竹千代は三河安祥松平氏の嫡男が代々名乗る名前で、家康が将来の当主として育てられた事を意味しています。
苗字である松平は、家康の出身母体である松平氏を意味します。では、諱の元康は何なのでしょうか?最後の康の字は家康の祖父、松平清康から取ったと考えられます。清康は23歳で家臣に暗殺されますが、僅か10年で三河をほぼ統一した英雄でした。
そして元ですが、これは家康が人質に出されていた今川義元の「元」です。義元は家康の烏帽子親でもあり後見人でした。烏帽子親から一字を貰うのは鎌倉時代からある風習で家康もそれに従ったのです。
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どうして徳川を名乗ったのか?
家康が松平から徳川に改姓したのには政治的な理由があります。戦国時代の三河には、家康と同じ松平を名乗る分家が14存在し序列がつけにくい状態でした。そこで家康は諸松平の上に立つため自らを清和源氏、新田義重の孫の新田頼氏が名乗った世良田氏の末裔と称し三河守に任命してくれるよう正親町天皇に働きかけました。
しかし、正親町天皇は「世良田源氏が三河守に任官した前例はない」として家康の申し出を却下。困った家康は関白近衛前久と協議、再度こんな感じの文面を提出します。
「え~もう一度、調べてみました所ですねェ…私の先祖は世良田源氏ではありますけどもぉ~世良田頼氏の嫡男と弟さんがですね、源氏から藤原氏支流へ分流して得川を名乗ったそうでございます。ですので私は藤原氏なんですね、藤原氏なら三河守になった方はゴマンといらっしゃいますよねェ?」
こうして家康はごまかしまくりの文面を提出して、苗字を徳川に変え、さらに本姓を源から藤原に改姓しようやく従五位下・三河守に任官します。
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もしかしたら家康は世良田家康だったかも…
こうして家康は、三河守として他の松平氏よりもはるかに高い官職を得て全松平氏に命令を出せる立場になったのです。もし、正親町天皇が最初の世良田で三河守を与えていたら、家康はすんなり世良田家康と改名し幕府は世良田幕府だったかも知れません。
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どうして元康から家康に改名したのか?
では、家康が名前を元康から家康に改名した理由はなんでしょうか?
一番大きいのは、三河で独立し織田家と同盟を結ぶ上で今川氏と関係を完全に断ち切る決意表明が大きいようです。いつまでも元康を使い続けては、織田信長に今でも今川と繋がりがあるのではないか?と疑われる可能性もありますからね。
では、家康はどうして「元」から「家」に改名したのでしょうか?これについてはよく分かっていません。松平氏の通字は親や忠が多く「家」については家康の高祖父、松平長親の子、松平長家しかいません。説としては、武士の鑑とされた八幡太郎義家にあやかったとも、家康の母、於大の二番目の夫である久松長家から一字貰ったというものがあります。
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名前一つにも様々な経緯がある
このように松平元康から徳川家康に改名するまでには様々な思惑がありました。NHK大河ドラマどうする家康では、三河衆を大きな家族と見立てて、家康としたというオリジナルの話が展開していますが、これはこれで夢があっていいかなと思います。
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日本史ライターkawausoの独り言
名前は戦国大名にとって、自分がどの勢力と連携しているか、あるいはどこに従属しているかを即座に表す事が出来る重要なツールでした。パワーポリティクスに直結しているだけに、勢力図が大きく変わると、名前を改名せざるを得ないという事にもなりますが、名前を追っていく事で、1人の戦国大名に起きた人生の変遷が浮かび上がってくるのが面白い所です。
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