引間城は15世紀頃、今川貞相が初めて築城したと伝承されています。室町時代中期には三河国の吉良氏が支配し、16世紀前半には今川配下の飯尾氏が城主を務めていました。お田鶴は引間城主、飯尾連龍の妻であり、連龍が今川氏真に誅殺された後に女城主となり家康の降伏勧告に従わずに奮戦し討ち死にした伝承もあります。今回は引間城の歴史について解説しましょう。
この記事の目次
引間城の歴史
引間城は15世紀に今川貞相によって築城され、その後、三河吉良氏によって支配されました。16世紀初頭、遠江守護の斯波氏と駿河守護の今川氏が抗争すると、吉良氏の支配下にある国人の大河内氏と飯尾氏が分裂、斯波氏に味方した大河内貞綱と今川氏に味方した飯尾乗連が抗争します。戦いは斯波氏が敗北し遠江守護は今川氏になります。
斯波氏に味方していた吉良氏は浜松荘の支配権を失い大河内氏は没落、飯尾氏は今川氏親から引間城を与えられ正式に今川氏の家臣となりました。以後飯尾氏は今川氏に仕え桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、飯尾乗龍も討ち死にし、飯尾氏の当主も乗連から子の連龍へ変わります。
今川氏真に謀殺される飯尾連龍
飯尾連龍は今川氏真を見限り、徳川家康を通じて織田信長に接近、それに激怒した今川氏真は大軍で引間城を攻めますが、連龍は必死で奮戦して撃退しました。そこで氏真は一度飯尾氏と和睦し、その後、駿府に連龍を呼び出して誅殺します。当主を失った引間城は家老の江間氏によって守られますが、城内はすでに徳川派と武田派に分裂して内紛が起き徳川家康によって早期攻略されたと言われています。
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お田鶴の方が引間城を守った説もある
一説では、連龍の未亡人お田鶴の方を中心に飯尾氏の残党が引間城を守備、家康が永禄11年(1568年)12月にお田鶴の方に使者を送り降伏を促しますが、お田鶴の方が拒否。その後戦いになると、お田鶴の方が城兵を指揮して奮戦しますが、最期は侍女と共に討死にしたとする伝説があり、城内にお田鶴を慰める椿姫観音もあります。
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どうして家康は岡崎城から浜松城に移動したのか?
ところで、どうして家康は、より京都に近い岡崎城から東の浜松城に移動したのでしょうか?それは、武田信玄が甲相駿三国同盟を破棄し駿府に侵攻したせいでした。信玄は遠江の領有も狙っていたので家康としては、信玄の動きに素早く対応できるように信玄から遠い岡崎城から浜松城に移動したのです。
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松平代々の居城として出世城と呼ばれる
城を陥落させた家康は元亀元年(1570年)に入城、引間の縁起が悪いとして浜松城と改称し城域の拡張や改修を行い、城下町の形成を進めました。家康が築造した浜松城は、土造りの城で石垣や瓦葺建物を備えていなかったようです。
家康が秀吉の命令で関東転封となると秀吉の家臣堀尾吉晴と、その次男堀尾忠氏が都合11年間浜松城主となりますが、関ヶ原の戦いの功績で出雲国富田に移封となり、その後浜松城は徳川家譜代大名の居城となって豊臣色は失われました。江戸時代の浜松城主は九家二十二代に引き継がれますが、その多くが幕府で累進したので浜松城は「出世城」と呼ばれるようになります。
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日本史ライターkawausoの独り言
引間城は今川氏の配下である飯尾氏の居城に過ぎませんでしたが、家康が駿府を攻略した武田信玄に備える為に本拠地とした事で、天下人の城として徳川時代を通じ有力な譜代大名が城主となり「出世城」として有名になりました。また、今川氏真に誅殺された夫の飯尾連龍に代わり、妻のお田鶴が女城主として守り最期まで家康に抵抗し討ち死にした哀しくも勇ましい伝説を持つ城でもあります。
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